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生きるベース? 信仰 毎月の黙想 2019年 1月

生きるベース? 信仰


 年末の地震、火山の爆発などは生きる謎やベース、“安全”などについて考えさせられた。インドネシアのスンダ海峡にある火山島 アナク・クラカタウ山の噴火によって火山の3分の2ほど海に崩れ落ち、海底の土砂崩れが発生して津波が起こり、何の前ぶれもなく大勢の人々の命や生活の場は破壊された。避難者は「他のインドネシア人ではなく、自分たちがこういう災いに遭うのはなぜか?こういう残酷な運に値するようなことをしただろうか!なぜ?わからない!」と自問自答するのではないだろうか。
 災いそのものは自分の存在が当たり前でないことを考えさせてくれる!なぜ生きているのか、自分の存在の基は何であるか、それとも「だれであるか」を考える機会になる。だがすぐに「親」と言う返事にはならないだろう。それは子供が欲しくても子供のない親が物語っているからだ。第2次世界大戦のとき、二人の息子が戦死した知り合いの母親の悲しみの目が記憶に残っている。「子供は人間が作るのではなく、子供を頂くことを意識すればよい!

 生きる事は最終的に人間の支配権には入っていない。それは人間になられたイエス キリストの場合にもあてはまる。
 イエスは人間からの不正を受けられた。自然(?)は善か悪かをどういう基準に選ぶのだろうか?わからない!キリスト者はこの謎から逃げる道として「神のみむね」のフレーズを使う習慣がある。理解できない/したくない状況に関することを「神のみむね」という。だがこれは説明できない痛みからの逃げ道(解放?)にすぎない。人間による神の分からない計らいからの逃げ道だ!人間になられたイエスご自身さえ「創造主の決断は分からなかった」し、あるいは「それ(苦しみ)を取り除いてください」と叫び、願った。「信仰は全ての謎を解く」というのは信徒自身が作り出したスローガン、「気休め、慰め」ではないだろうか。ちなみに苦しみの原因が分からないのは苦しみをより増やすことになる。苦しみの原因とそれから生じてくる痛み(罪意識?)が分からない状態は、内面的な痛み/状況を生み出すことも少なくない。自己の行いに対する罰であるなら、その罰を受け入れやすい。だがその関係が納得できないとき、罰のつらさはより耐えがたいだろう。罰や、苦しみの訳が分からないのはより重苦しい。行いと罰の相関関係を分かれば罰を受け入れやすくなるのも例外ではない。
 イエスも「なぜ苦しまなければならないのか」と叫んだ!何も悪いことをしなかったのに!だが信仰は信頼することであり、不可解な出来事の理由を知ることではない!


 新しい年を迎える

 年を取る/取らせてもらうのは、必ずしも希望通りにプラスだけの状況とはいかない。「年を取る」にはさまざまな質があるからだ。例えば、体験を重ね、より深い知識人になられる可能性がある。日々の当たり前にしている行動(お掃除、庭の手入れ、買い物、散歩や運動、読書のあと、自分の考えを書くことなど)について発見したことを周囲と分かち合うこと、楽器や歌を一人で、それともサークルで定期的に楽しむことによって自分の能力やタレントを維持し続けることなどは日々の生き方に活力を与える。新しい年は日々をただ増やすだけではなく、心身共により内面的な深い人間になられるチャンスにもなる。人生はただの“メリーゴーラウンド”ではなく、新しい環境/現実、新しい自分自身になる道でもある。


 プラスの年になるためにはよく考える事が必要

 例えば、
・問題にぶつかるときは、それから逃げずに、よりよく生きるためのチャンスとしてつかむ;
より深い内面的な人間になるチャンスが与えられ、刺激にもなる!
・問題にぶつかることは邪魔されることではなく、自己を生かせるプレゼントとして迎えること。
・頭を使わせてもらうことは、生き生きと生きるチャンスになる;
例えば、テレビで面白くない番組を選んだなら、それから逃げない。あるいは読みにくい本でも閉じてしまわず、少しでも理解できるように努力することは、内面的に成長する機会へのチャレンジだ。
・「難しい」よりも「やってみる」と考えれば、内面性は伸びるチャンスを与えられる。「やってみる!」や「チャレンジだ!」のような心構えは、持っている自己の力を尽くす原動力にもなり得る。それは決して例外ではない!逆にチャンスを拒み、逃せば、もっている能力さえも失ってしまうことはよく体験させられる。

 生きる事は動き、動かすことでもある。使わない能力は使えなくなってしまうのは自己体験からも分かるであろう(例:歩くこと!)


 生きることは絶え間ない努力の連続

 例:パソコンや単語の新しいスペルを学ぶことに消極的な人のこと。本人の知的能力の欠如(喪失)は現れてくる。使わない能力~身体的なものこそ~使えなくなってしまうのは常識であろう。反対に考えるチャンスを掴むことによって、内面性に対する肯定的な影響を与えられることは体験できる。年を取る時、内面的な生き方は深くなることも例外ではない。その人の目をみればよい!生かせる目もあれば、刺激を与えない目もあり、反応のない目もある。

 信仰に恵まれているのなら、それは祈りや礼拝を含む、単純な習慣や儀式の繰り返しから身についたものではない。それは絶えずその内容を考え、味わい、新しい面を発見させてもらうチャンスになっている。信仰とは形になった儀式に従い、説教を聞き、研修会に参加することだけではない。生きている信仰は自分のさまざまな体験によって深められ、自分を生かせるパワーとなる。言い換えれば、信仰は過程そのものである。その命を与える躍動的な過程を周囲に分かってもらえないのは意外なことではない。なぜなら変化や変わることよりも、慣れていることの繰り返しは安心であり、好みやすい。「創造主」といっても、静的な創造主を優先的にする。クリスマスや新年の生き方は以前からの習慣(祝い)を優先するという具合に。もっとふさわしい儀式を生み出そうとするより、習慣になっている儀式を優先する!創造主は一人ひとりとの関係を特別にして、共に居ようとするにもかかわらず、自分自身が変わること、変えられること~グレードアップ~に手を出さない(勇気がない!!)。

 一人ひとりが唯一の存在であるなら、その有り様も変わるのは当然であろう。昔の習慣のくり返しだけであれば、今を生きようと考える人々にとって、信仰に魅力を感じられないのは当然であろう。従って現代社会の変化やニーズから学ぶ必要がある!


 生きる事は成長すること。
  成長することは変わること。
   変わるなら、今の人間のニーズに応えようとすることは優先課題である!

 創造主との関係は一人ひとりが異なっている。というのは一人ひとりが異なっている作品であるからだ。一人ひとりの生き方も異なり、まるで創造主は芸術家のようである。例えば画家は同じ作品を描かない!何年か前に一人の画家に「同じ絵をもう一度描いてくださいませんか」と尋ねた。そのときの答えは今でも耳に残っている。すなわち「同じ絵は何度も描けない!」。同じように、信徒(人間)と創造主との関係もそれぞれが異なっているのは当然であろう。一人ひとりとの関係は「一対一」の価値であり、大量生産の一つではない。創造主の希望に従って人間の姿になられ、生きられたイエスの生涯はこの事実を物語ってくれる。イエスご自身も周囲に理解してもらえなかった。そして追い出され、殺されたのである。


 創造主との関係は生かせる関わりであり、大量生産されるものではない!

 習慣はありがたいが、同時に危険でもある。
 例えば、「クリスマス」や「新年」、「誕生日パーティー」や「結婚式」など。お正月の神社仏閣へのお参りや八月の墓参りもそうであろう。こうしたお祝い日や記念日は、単純な習慣(お祭り)あるいは単なるイベントの形として内容は薄くなり、もしくは消えてしまい、残るのは単純な儀式としての形だけであろう。


 生きる事

 生きる事は単なるくり返し(メリーゴーラウンド)ではない。人生は誰もが知らない道を歩み続ける行為である。次の瞬間に何が生じてくるかは分からない。例えば台風、地震、防災への注意やもしサイレンが鳴っても、次にどうなるかは前もって分からない。また天気予報やインフルエンザの予防パンフレットを読んでも、インフルエンザから守られる確かな保証はない。そして大晦日に過ぎた一年のために感謝しても、正月に救急車を呼ばなくてすむ保証もないだろう。人生の歩みは前もって自分自身が支配できない事柄だからだ。人生は“運”ともいい、我慢したとしても、どうなるのか分からないのは事実である。

 生きる事の中心課題は自分自身になろうとする努力である。そのためには人の真似をするのではなく、自分なりに現実を理解し、生きるための努力をし続ける意志が不可欠である。新しい年は「2019」という数字だけではなく、前もって分からない厳しい現実の意味が含まれているのである。新年は2018年のくり返しではない! 2019年を生きるための心身共に全力を尽くす行為だ。「新年おめでとう!」より「互いに生かしあう!

 年末年始の習慣的な挨拶、「イエスの死と復活の記念」に決められた通りの応答、相手が困難にあるときの通り一遍の挨拶ではなく、それぞれの出来事(人生、生きる事)について、自分自身の考えを最小限でもまとめ、相手に伝えられるようにチャレンジしたらどうか!人間としての自分は、現実のすべてを分かり得ないという事実から逃げず、責任をもち、協力し合うことによって本者になろう!心は全人としての人間社会形成への有効な援助になる。

日付: 2019年01月08日

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私の思い(1件)

久しぶりの「イエスは友」を読ませていただき、いつもの内容の深さに感服致しました。
私はそこに書いてあるように、読み始めた本は十分に理解できなくても活字を追い続け、読み通すことが折々あります。
また聖書を他の言葉で読んでみたいと、毎日の福音の箇所をフランス語で、辞書を引きながら読むということを数年前から始めたものの、余りもの力のなさを感じて通信教育で基礎を学び始め、難儀しながらも読み続けています。
こういうことを続けている自分は人間として成長しているのか?それとも単なる惰性と人生の時間潰しの儀式となっているのか?と立ち止まることが時にあります。
でも、それもそれで意味があるのかなと、神父様の文を読みながら、自己肯定の励ましをいただきました。

A.F(2019年01月10日 12:34)




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