毎月の黙想毎月の黙想

私はイエスに従うと・・・ 毎月の黙想 2018年7月

私はイエスに従うと決めたことを変えない!

I have decided to follow Jesus, no turning back!


 40年前、アメリカに住んでいた頃、「私はイエスに従うと決めたことを変えない!」というgospel songに出会った。今でもそのことばが力になっている。「イエスに従いたい!」という決意を守るのは日々の課題である。その一つは、イエスのように~人間同士として~出会う人に挨拶し、チャンスがあれば周囲にイエスを紹介する行為。イエスを伝える根本とは自分自身そのものである。信仰は言葉や教えではなく、人間として互いに尊敬し、成長する行為であり、自分そのものが“生きている言葉”だからである。


 挨拶や人間関係を通して、少しでもイエスのように人と関わりたい。散歩の途中、知らない他者との挨拶はあまりしないが、ペットを連れている人に挨拶することは多い。ペットについて言うことがあっても、知らない人に話す言葉はないようだ。2年後のオリンピック開催をきっかけにこの状態が変わるように期待している。


 教会での「イエスの死と復活の記念」に参加する途中、同じように歩いて行く知らない人の一人にでも挨拶するのは「イエスのよう」ではないだろうか。聖堂に入って、知り合いや友だちを探すのではなく、空いている席を探すのは「イエスのよう」であろう。イエスは家族や評判のよい人ではなく、社会で弱い立場にある人々と関わられた。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」  私が「イエスに従うことに決めた」行為の一つは、その人その人の相手になることである。


 「The world behind me, the cross before me 世間は後ろに、十字架は私の前にある」 はgospel songの第2節である。偉くなることや、権力を手に入れようとする望みがあるならば、司祭であっても絶え間ない試練の連続であるのは事実である。イエスに従うのは偉くなって影響力を持つことではなく、一人のメンバーとして互いに活かし合い、より良い共同体になるよう共に手をたずさえることである。地位や肩書きなどはイエスの価値観ではない。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」


 「Though none go with me, still I will follow 誰も共に歩まなくとも、私はイエスに従う」 は第3節である。イエスに従うことは、考えずに共に従うことではない。イエスに従う行為はメリーゴーラウンドのようにいつも同じようにすることではなく、時のニーズに応えようとすることである。それは今の社会のニーズを調べ、少しでもそれに応えるために、共に工夫することである。例えば災害が発生した場合、混乱状態から逃げ出さずに協力できるように努力し、実践する行為はその一つであろう。その時リーダーの存在は大切であるが、ボスにはならないように。同時に、自分がリーダーになれないなら手を引いてしまうこともイエスのような態度ではないだろう。


 また、病んでいる方のケアは「癒し」であり、病気を治すことではない。癒すことは何かの方法によるのではなく、まず援助する側の人間的資質によるのである。誰かの真似をするのではなく、まず自分自身が癒されている存在として関わることである。癒しは自分がすること(方法)ではなく頂いた能力であり、ギフトである。「言行一致」による人間的資質は癒しにつながる特徴の一つである。癒すことは単なる方法ではないからである。


 「My cross I’ll carry, till I see Jesus イエスを見るまで、私の十字架を背負って生きる」 は第4節である。イエスに従って生きることは平坦な道ではなく、でこぼこな道である。イエスに従うことは絶え間ない努力を要求される。それは、チャンピオンであるならそのタイトルを保持することに似ている。厳しい訓練であるのは事実であるが、力になるのはその報いである。イエスに従うごほうびは「イエスをみる」こと、つまり「イエスと共に居て、目と目をあわせ、共に生きられる」ことである。


 イエスは生きることのプレゼントである。そして今の苦労を堪え忍ぶ力や励ましになる。苦労や死は存在の締めくくりではない。存在そのものはイエスによって生かされているからである。これはイエスに従う私たちの希望の元であり、苦労を耐え忍ぶための原動力になる。


 「Will you decide now to follow Jesus? 今、イエスに従うことを決めるか」 は第5節である。イエスに従うのは日々新しくたてる誓いだ。でなければ自己の希望や周囲に従った人生を送ってしまうこともあり得る。日々の情報が自分の人生のガイドラインになっているなら、イエスの薦めてくれる生き方の実践は難しくなる。先月、ロシアで始まったサッカーのワールドカップに対する関心は、今のイエスのことば(よきニュース)よりも魅力があるのではないか。夜中であっても、試合を最後まで見続けてしまうのは例外ではない。もし夜中に、サッカーの試合時間と同様に、祈りましょうと薦められたらどういう反応をするだろうか?私事だが、若い頃に9年間、サッカーの選手(キャプテンを含めて)を一所懸命やったことがある。だからこそ、ワールドカップ~試合結果~に縛られたくないのである。自分自身の内面的な自由を失いたくないからだ。サッカーを観察するよりも瞑想を選びたい。これは闘いでもあるが、自己の限界のあるエネルギーを無駄使いしたくないからだ。ワールドカップより世界の平和や難民の生きる場、アメリカと北朝鮮が互いに尊敬し合うこと。そして独裁的な国に生きる国民が、人間としてふさわしい生活を送れるように願い続けることを中心課題にしたい。それはイエスに従うための闘いだ!


------------------------
1: マタイ 9:13
2: マタイ20:25-27

日付: 2018年07月04日

戻る

私の思い(3件)

今月の黙想の内容からキッペス神父様が何時も己れを見つめおのれと戦い続けておられるお姿が良く伝わってきました。神父様のご指導の中、後に着いて行きたいと思う弟子が私を含め何人も育っている事を喜び合いたいと思っています。仲でも一番心に響いた言葉はイエスに従い生きるためには厳しい訓練が必要だと言うところです。そしてその結果として優しい笑顔の溢れる自分になりたいと思いました。今の世の中でとかく囁かれている終活こそが、全ての人にとってイエスと共に生きたい事であって欲しいと願っています。

T.S(2018年07月04日 14:14)

私の住んでいる地域でも、連日の猛暑と強風で、異常気象とは思いますが、此のたびの西日本豪雨はマスメディアを通してでなければ多難な状況を知ることは全くできません。

イエズスのやわらかい、人の痛みを感じ取る心を持って生きなければ私はすぐ傍観者になってしまいます。
"I have decided to follow Jesus."からにはと、自分の出来ることを日々模索しています。

A.F(2018年07月16日 14:31)

先日まではサッカーW杯ロシア大会で大騒ぎして、
夜中までテレビ中継を夢中で観戦して時間があっという間に流れていました。
今日から平和旬間で、主に捧げる10日間、平和のために祈ろうと呼びかけられ、祈りに招かれています。
祈りのうちに♪キリエ、エレイソン……皆さんに感謝……と、ふと鼻歌のように、心のなかで歌いました。
実にいろいろな人のお顔、お声、印象的なお話が浮かんんできて、与えられた時間、場所、体験、機会、出会いなどに感謝して、ご聖体拝領し、祈ります。ある人が「時は流れていくものではなく、満ちていくものです」と、お話されていました。祈りのうちに、ご聖体拝領のうちに、心がいっぱいに満たされます。私たちの時が少しずつ満ちていきますように、心に平安が来ますように。
S.U.


内田明佳(2018年08月07日 1:53)




ログイン情報を記憶しますか?


※ブログの管理者が公開を承認するまで「私の思い」が反映されません。ご了承ください。

バナー

  • イエスのみことば
  • パワーを合わせよう 共に祈ること 黙想会 電話で祈る会
  • こころのリハビリ 毎月の黙想 新刊・既刊書紹介
  • 祈りのリクエスト