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死とは移り変わることであり、・・・ 毎月の黙想 2018年5月

死とは移り変わることであり、消滅ではない


 最近のこと。10年以上前から「イエスを囲む会(黙想会)」に参加されていた方が旅立たれた。その少し前、ご本人から許可を得て二回ほど病室を訪問し、わずかな時間を過ごさせてもらった。彼女はよく考えられ、意識的に、まじめに日々を生きておられた。おそらく宗派は異なっていたと思われるが、ご自分の信念(信仰)を基盤にして暮らしておられた。「イエスを囲む会(黙想会)」に参加されることで聖書の理解を深め、「イエスの死と復活の記念」のときには意識的でまじめな姿勢は単なる“式に参加する”というような態度ではなく、内的な姿勢が記憶に残っている。訪問し、お互いの顔を合わせた時に、共に「死」について考えることができたことを感謝している。


 この出来事があって私は死について考えさせられた。以下に考察のうちのいくつかを紹介したい。と言っても、そのとき(私自身のこの世からの旅立ち)が来ない限りその本質は分からないだろうが、あくまでも今の私の考えである。そのときが実際に来なければ、私はどのように変化していくのか想像もつかない。現在の考えとその時点での現実(体験)はおそらく異なっていることだろう。


 死とは

 キリスト者にとっての「死」とは、「今の生き方 」にいつか終わりがあることを教えてくれる。だが「死」とは存在そのものが消えてしまうことではない。体そのものは消滅しても、「パーソン」そのものや存在そのものが消え去ることではない。言い換えれば、イエスを信じる私にとって、その姿は変わるが、存在そのものは消えないのである。イエスを信じている者は今でもイエスの御体と御血をいただく。見える形は変わっていても、その実体はイエスの本物の御体と御血である。イエス(そのパーソン)は生き続けられているが、その現れは多様である。形ではなく、存在そのものが中心課題なのである。


 イエスを信じる人にとってこの世での生き方は全てではなく、与えられた一つの生涯である。従って「死を迎える」のではなく、この世に生きている時が終わり、「命の源である創造主に会えるとき」なのである。そのためにイエスは「命の源を信じ、全力を尽くし、その希望(心)にそって生きる」ことをベースとされたのである。これは「私は道、真理、命である」*1 とおっしゃったキリスト(=油を注がれている者)*2 であるイエスを指している。自由意志によってそのイエスの希望に従って生きようとする者は、イエスとの関係を結ぼうとしている。「洗礼を受ける(心の改心を求める)者は救われる」はイエスの希望として聖書に述べられている。すなわち、「イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける』」。*3 洗礼のベースはイエスへの信仰=関係を結ぶことであり、儀式としての行為ではない。


 イエスとの関係を結ぶのは他の方法でも得られる。
 ・「悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。 『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。」*4 ここでは洗礼を受けるためのアドバイスについては何も語られていない。
 ・イエスと一緒に十字架の死刑を受けた罪人の一人に対しては「洗礼を受けなさい」のようなことばではなく、「『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる 』」という救いを述べられた。*5 イエスはその時その時のその人の状況をよく考え、必要であり、可能である行動を要求される。


 人間として生きるには自分の存在について考えるのは不可欠だ。具体的には、
 ・自己存在の元(どこから来たのか)
 ・自己の存在の意味(価値)
 ・自己の生きる目標(どこに行くのか)
 ・生きる目標に達する手段の明確化
こうした問いかけに向き合わず、何となく周囲(社会)の伝統~義務教育を含む~や習慣だけに従って生きることもできる。だが最終的に、一人ひとりは自分の考える能力をどう使ったかどうかが人生の結論になるのではないだろうか。


 現代人は日々の生活において、生きる意味を課題にする人はきわめて少ない。日常の主な話題は天気、(身体的)健康、経済(定年退職後の生活)のような事柄が少なくない。私事だが、ある同級生は話すたびに60年以上前になる学校時代の思い出をテーマにするので、考えさせられる。現代もなお紛争や戦争があり、難民や貧困等の社会的環境によって困難が生じている(人間同士)の状況をどう感じているだろうか。自分が授けられた教育とは何だったのかを通して、現代社会の中に生きる事を分かち合えればいいのに!そうであれば、こうした話題に関心を持って進んで耳を傾けられるのに!あるいは属している宗派(信仰)による生き方への影響などに付いての意見交換を私は望んでいる。もちろん「死」については、なおさら話題にはしてくれない。


 私にとって「死」は自分自身の国において、子どもの頃から自然に受け入れていた。「死」は日常の意外な話題ではなかった。さらに年齢を経て、ドイツの子どもホスピスで多くのことを学ばせてもらった。短い寿命ではあっても、幼い子どもにとって死は特別なことではなく、普通のテーマなのである。例:ある“子どもホスピス”では、親とスタッフは子どもに対して“死”を次のように紹介している。旅立たれた仲間の幼児は2~3日間、ホスピス内の「お別れの部屋」に安置されている。それはホスピスに居る者はだれでもお別れができるためである。幼児には「死」そのものを、「星にいく」あるいは「星になる」のように教えている。従ってホスピスで一人の仲間の幼児が旅立たれたときには、〇〇ちゃんは今「星にいった」あるいは「星になっている」という会話をする。*6
そのホスピスの庭園には小さな池がある。その池の中には旅立たれた幼児の記念(思い出)のために、その幼児の名前を書いた石がひとつずつ置かれている。それによって今も生きている幼児は、旅立たれた仲間を意識することができる。
従って「死そのもの」を秘密にせず、人間の普通の有様の一つとして体験できるような環境になっている!具体的に言うと「今、〇〇ちゃんは星になっている」あるいは「今、〇〇ちゃんは星にいる」と子どもに教えている。幼子はそれを普通のように納得し、死は怖いものとしては受け取られていないようである。


 ちなみに、日本では大人同士であっても「死」は避けたいテーマのようである。どうしてだろうか。


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1: ヨハネ14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
2: ギリシャ語である「キリスト」とは、アラマイ語(ヘブライ語の一つの方言)では「メッシア」と言う。その意味は「油を注がれた者」である。旧約聖書では王様や司祭長は公職に就くとき油 を注がれた。
3: マルコ16:15-16
4: ルカ 8:38-39 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
5: ルカ23:43
6: ここでは信仰(宗教)を持っている家族の場合はチャプレンが付き添い、ホスピスでの「死」の理解(説明)とは異なっている。

日付: 2018年05月09日

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私の思い(2件)

1年を通して「死」を考える事はとても大事な事だと思っています。自分を真摯に見つめる時間でもあり、又、自分が如何に至らなくあるのに神様は何故にこんなにも深く愛して下さるのかをも体験させて下さるからです。光り輝くキリストを素顔のままに仰ぎ見て尽きぬ慶び限りなく、それが世々とこしえに有るなんて、、、それは「死」の時に始まると確信していますし、信じています。

T.S(2018年05月09日 13:53)

「人間ってそういうものよ」 「世の中ってそういうものよ」 「なるようにしかならないわよ」という言葉で、自分の人生で起こる事柄を処理している人が多い。
そういう人々の中にあっては、もっと人生を深く味わいたいと思う自分がいて、反対に人生を悶々と過ごしている人の中にあっては、そんなに深く自分のことを考えすぎないで、執着しないで楽しく生きるようにしたら?と深く考える根気のない自分がいる。

「死」は私にとっても一番話題にしたい事柄であるが、お墓や遺言の話は出ても、限りあるこの世の”生”について、また唯一確実である”死”についての話は殆ど出ない。                A.F

藤井昭子(2018年05月23日 17:09)




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