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何となく生きるか、それとも・・・ 毎月の黙想 2018年4月

何となく生きるか、それとも目標をもって生きるか


 生きる事。今その意味、目的や価値について考えるべきではないか。自分自身が納得して生きているか、それとも周囲に合わせ、期待通りに日々を過ごしているのか。先月キリスト信者は、二千年前に生きる目標を持ち、それに従って最後の最期の息までも全力を尽くし、その人生を完成された方の記念を行った。それはユダヤ人のナザレのイエスであった。


 自己の命は自分の創造でも、望んだことでもなく、与えられたものである。だが与えられたと言っても自分は親に造られた存在ではなく、親に授けられた存在である。親が自分の子と言い、あるいはそう思っても、子どもは「あくまでも授けられた」存在である。

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 自由意志からではなく、未知の世界と環境に置かれ、そこで生きようとするには、自分自身の存在の意味、生きる目的言わば使命を発見する課題に出会う。そのために必要とする努力(意志)は本人の決断、言わば「自由意志」による。しかし「自由」と言っても、それは自分にとって理想的な、自由に選択した現実だけではなく、他力の意志によって成し遂げなければならない現実もあろう。


 自分自身は他力から決められ、与えられているものである。したがって自己の存在意義、役割や使命は見つけるというより、発見させてもらうための過程として、恐らく一生の厳しい課題になるのはごく当たり前なことかもしれない。日々の生活習慣、生きるためのさまざまな困難、憂いや病気と関わる現実は、生きる事を楽しむよりも厳しいチャレンジであったり、重荷になったりすることは少なくないであろう。年齢を重ねるにつれて生きること事態が重荷に感じられる現実は日々の生活の中に見受けられる。例:杖やシルバーカーを使うこと、ヘルパーの付き添いなど。


 積極的に生きること


 人生を我慢することよりも積極的に生きようとすることは日々の努力の課題である。私事だが、静けさの中での内面的な世界の発見と育成(例:スマホやインターネット使用の時間や曜日の制限、瞑想や、形式的ではなく意識的に行う礼拝や祈り)は的確な方法の一つになっている。例えば、今回のテーマを考える前に、心臓と「胃カメラ」による検査を受けた。特に胃カメラは初めての体験だったので怖かったが、前もって考えることは止めた。実際は二時間余りだったが、できるだけ静かに過ごそうとした。ところが心を尽くして私を援助する看護師の言葉によって、痛みを和らげる援助というよりも考える糧になった。ほとんどの内容は「痛み」の説明(話題))になったので、私にとって助けよりも内面的な平安が希薄になってしまった。もう一つの平安の妨げはバックグラウンドの音楽だったので、静かにしてもらうように願った。すると音を小さくするのではなく、完全に消してくれたのは非常にありがたかった。初めての胃カメラの体験を静かに味わうことができたからである。


 すべてのこと/体験には意味があり、それを掴み、最小限でも把握できるように努力するなら、人生は豊かに深まる可能性がある。


 生きる見本/模範、イエス


 イエスを信じるのにはイエスの希望/期待に応えようとする努力が伴う。イエスを知り、イエスから学ぶには、日常のスケジュールの中にイエスと過ごす時間(の長さ)を決めれば有効であろう。言い換えればそれは都合に合わせた行為ではない。


 イエスと共にいさせてもらうことは特権であるが、それは相互の関係性によるものである。自分だけではなく、相手の思いを察するような努力が必要である。周囲(伝統)から学び、推薦してもらった方法(例:祈り)を実践し、さらに自分の体験を通して自己に合う方法を見つけて行動する。それは親しい人や友だちとの関わり方と同様な過程であろう。再び私事だが、若い頃の祈り方は、現在はしていない。今は慣用句ではなく、自分流の言葉に変えて祈ることが習慣になっている。と言っても今は「ほとんどは共にいさせてもらう時間」を静けさ(沈黙)の中で過ごしている。このように習慣としている時間以外に、例えば散歩や乗り物の中では自分の内から自然にメロディーが出てくる。それに自分の言葉を入れて歌い続けられるのは“プレゼント”だと思う。私が体験しているのは言葉の数が少なくなるにつれ、その言葉に深い味わいが出ることによって関係は本物に近づくという事だ。それはプレゼントであり、またプレゼントになる。


 イエスからもう一つ学ぶべきものは、イエスのように自分の生きる目標を発見し、それに向かって歩み続ける意志、努力などである。言わば日々の訓練は人生に深みを与えることになる。あるときイエスはご自分に従ってきた弟子に言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」*1 と。イエスの生きる目的は自分の希望、意志や好みに従うのではなく、命の源(御父)からの崇高な厳しい望みに従った生活を生きるために全力を尽くす使命である。言いかえれば「出しおしみしない人生そのもの」の要求であった。命の源は自分の命までも尽くすほどの努力、闘いを要求される。それは命を滅ぼすことではなく、命から(永遠の)命を生み出すためなのである。納得しがたい希望やご計画!は命の源からのイエスご自身に対するみ言葉「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」*2 を思い出す。


 イエスのように真似はできなくても、イエスのように、何にも代え難い命を自分にくださった御方に、「生きる意味や目的は何ですか?」と尋ねてみるとよいだろう。恐らくすぐには分からせてもらえないかもしれないが、日々の生活の用事を果たしながら少しずつ明確になっていくのではないだろうか。日々の生活が上手く行くかどうかではなく、自分の内面的な声(良心)に従った行動であったかどうかを判断の基準にすればよい。ちなみに“成功”を基準にはしないことを意識するとよいだろう。


 今でも、人間(私たち)はイエスの希望に従って生きている状況に達していない。それは自分自身の生き方をはじめとして、日々の世界・社会のニュースによって痛感させられている。イエスを信じている自分自身がそれをしたくても、したくなくても体験しているだろう。だが現実は理想的でなくても、イエスのように自分の目標をもち、日々それに向かって生き続ける努力は無駄にはならない。先月祝った「イエスの出しおしみしない生活の記念」を日々活かすチャレンジ。最初の一歩として幼稚園時代に実行した/させられた“挨拶を交わす習慣”の回復を!!!


   「出しおしみしない生活を記念する」
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1: ヨハネ4:34
2: ヨハネ12:24

日付: 2018年03月30日

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