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イエスに、イエスのために、・・・ 毎月の黙想 2018年3月

イエスに、イエスのために、選ばれた自分


自己の再確認
 今の時期は、イエスとの関係を再確認するチャンスです。そのためには鏡を使うとよいでしょう。鏡に映っている自分の顔をしばらくの間味わってください。その後、感じたことを(日記やノートに)書き留めます。さらに、イエスは自分をどのように見てくださっているかを書いてください。

 そのときの参考に次のいくつかのイエスの発言を挙げます。


・ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
・ヨハネ13:18 「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。
・ヨハネ15:17 「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。
・ヨハネ15:19 「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
・ヨハネ14:6 「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』


 自分の顔を見ながら、上記の一つの箇所でも思い出してゆっくりと味わってみてください。その感想を書いて残せば今後、何らかの手助けになるかもしれません。自分がイエスに選ばれているのは認めにくいことかもしれません。だがそれは自分によるものではなく、創造主のおかげなのです。この事実を認め、受け入れるのは人生の意義やライフワークになる価値があります。イエスに選ばれたことは傲慢の元になるのではなく、自分の人生のガイドラインになります。


イエスのために
 イエスに呼ばれているならイエスの希望、願いを聞き取る行為は不可欠になります。イエスと共にいるとき(例:静かな時間や瞑想)、聖書を読む時、またそれを実践するとき、共同の礼拝などの時にそのようにされますように。 自己のイエスに好まれてとの関係作りには多様性があります。それを認め、他者のイエスとの関係を尊重するのはイエスに好まれている生き方ではないでしょうか。創造主の作品には特徴があり、わたしたち人間の一人ひとりの指紋も異なっています。それは人数よりも、各人が個性をもってイエスに従っているということが中心課題となるからです。イエスと結ばれている人々はオーケストラの一員です。シンフォニーを奏でるためのひとつの楽器のように。


 具体的に言うと、お互いにイエスに選ばれていることを自覚し、イエスとの個人的な関わり方や、それによって得た力や困難をお互いに分かち合えれば助けになります。自分自身のことを自由に話せる環境において、自己の道を明確にする一歩を踏み出せることも例外ではないでしょう。けれどももし、誰かがすぐその人にコメントすれば、自分自身のことを自分なりに整理し、理解し、納得できる可能性を失ってしまう場合は少なくないのです。「言わなければよかったのに!」と、後悔しないように。


 イエスに従って行くには勇気がいります。ごく最近のことですが、Facebookに冬季オリンピックについて次のテキストを掲載しました。「”Nothing Comes From Nothing” holds true for me also to the Olympics. Ice, snow, mountains as well as we humans are not our own creation. Today is the time for thanking the CREATOR and GIVER of these presents. For me to the FATHER・JESUS CHRIST and the HOLY SPIRIT。*1」すぐに配信元から「それは実際にご自身の言葉でしょうか」との知らせが入りました。おそらく信仰(宗教的活動)に敏感になっているのではないかと思いました。イエスを伝えるのは簡単ではありません。


 イエスに従う人が信仰に関して同僚に質問する勇気があることは好ましいのです。何もかも「はいはい」という”よい子”が多いのは危険です。というのは社会や化学、物理学などの学問は今まで分からなかった事柄の発見や生活様式の変遷によって、信仰の理解を問いかける事実になるからです。伝統だけがすべてではないのです。時代によって信仰の理解も変わります。(例:ガリレオはコペルニクスの地動説を是認したため、宗教裁判に付されたこと、心理学や医学の発展などによって聖書の理解が変わることは例外でありません。)


 イエスの信徒が多様な形でイエスに従っていることは、人間同士としての平安と、社会/世界の平和への奉仕になることでありましょう。


 自分の使命を成し遂げるにはイエスの「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」*2 を時々思い出せれたらよいと思っています。
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1: 私にとって「ないところから、何か出てくることはない(サウンドオブミュージックの中の主題歌)」ということばはオリンピックにも当てはまる。氷、雪、山と人間は私たちの創造したものではない。今日(3月25日 最終日)はこうした現実を造られ与えられた方(創造主)に感謝するときである。言い換えると私にとって父なる神、イエス・キリストと聖霊である。
2: マルコ16:15

日付: 2018年03月02日

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私の思い(1件)

イエスに選ばれたことを自覚し、それを自分の人生の根本に据えて、喜んでいるのは間違いありません。
でも世間的には、何か宗教に頼らなければならないほど苦しいことがあるのかと差別的に見られたり、また逆に宗教を持っているのは何か生き生きしていていいみたいねと羨ましがられる逆差別を体験したりします。
目に見えない、信じるものを持っている人も、またその団体も、やはり世間的には一種の気味の悪さと羨望があるようです。
イエスを生きることも、伝えることも簡単ではありませんねー。

藤井昭子(2018年03月24日 15:09)




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