毎月の黙想毎月の黙想

「あけましておめでとう」 毎月の黙想 2018年1月

「明けましておめでとう」
「命」


招き
 新しい年に「はい!いらっしゃい」と招かれるのはよろこびであろう。だがこういう招待であっても、だれに、そしてどこに招待されるかを考えないだろうか。私にとって新しい年を迎えられたことはプレゼントである。プレゼントであるなら、そのプレゼントはどこからというより「だれから」の贈り物であるかを調べる。私にとって新しい年に入らせてくださるプレゼントの贈り主は「命の源」、すなわちイエス・キリストを紹介してくださる創造主である。それは「父なる神、御子であるイエス・キリスト、生かせる聖なる霊」なのである。

贈り物へのリアクション
 贈り物、プレゼントには何かの動機や希望、願いが含まれている。それらを考え、分かった事柄を思いめぐらして、このプレゼントに対する行動を取る。プレゼントを何も考えずに自分のものにすれば不適切ではないか。例:食物をもらったとき、それを贈り主の思いやり(心)を考えずに食べてしまうのは贈り主の心を無視し、もしかすると傷つけるかも知れない。「あまりおいしくない」のような反応も、もしかするとそれだけが贈り主への(無言の)「恩返し」になるかもしれない。


 生きること、生きていることは単純な行為ではない。新しい年を迎えられることは当たり前ではない。自己の命そのものは自己の想像ではなく、ただで与えられた実体だからである。その事実を発見し、それを認めて受けとり、その意味と含まれている使命を発見し、それに向かって生きようとするのは自己の使命であり、ライフワークと言えよう。年末や新年はそれらの事柄を再認識する時期、機会、チャンスでもあるだろう。
 チャンスはチャンスであり、自己の支配権に基づかないものである。言い換えればチャンスは与えられたものであり、そのチャンスをつかまなければ失う。再びチャンスがくるかどうかはわからないからである。私事になるが、この文章を作成するのは、そのチャンスを掴み、自由意志で決めたのである。こう言っても、この作業にかかると途中で「ニュースを読みたい、eメールを読みたい」という誘惑の声が強く聞こえてくるときがある。それに従わないためには自己の意志を要求される闘いになる。「分かっているのに止められない」という習慣に対する闘いになる。ちなみに朝、祈る時間にはこういう闘いがほとんどない。朝、起きてからすぐ文章を書くのは早いが、それは後回しにして瞑想を先にするように決めている。

人生のグレードアップ
 年末の大掃除は新しい年を迎える準備である。片付けや不用な物を捨てることは、生きるのにより大切なことのために、内面的および住環境にスペースを得るためであろう。言い換えれば生きるために“荷物”は軽くし、新しくスタートをするためである。
 お正月に年賀状を書くとき「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。皆様のご健康をお祈り申し上げます」のような挨拶は一般的である。
 だが慣用句や時候の挨拶などを使わず、自他を活かす機会として使ってみるなら、内面的に豊富になり得る。例:「昨年、友人が旅立たれたことで、友人が居ることそのものが宝であることを深く意識させられた」のように。人生を豊かに生きるためにも、自分そのものを活かそうとする努力が必要!

命の「字」
 「命」・「生きること」に付いて熟考してみるとよい。「命」そのものは生きるベースであるからだ。人間、また自分自身について考えれば、自己の「存在」の基は自分自身ではなく、他力によるものであると解り、それを単純に納得するのは容易ではない。
 ここで「命」そのものの理解/把握するための一つとして、漢字から考えてみる。
 「命」の漢字意味とは[ひざまずいている人に大声で言いつける]という説明がある。具体的に言うと、
・申しつける(命令・厳命)
・いいつけ。おおせ(君命・勅命)
・名づける(命名・命題)
・名簿。戸籍簿(亡命)
・めぐりあわせ。天の命令(命数・宿命・運命・革命)
・いのち。寿命(人命・生命)
・みこと。神道において神の名に添える名称。
 字義は、
・跪伏(きふく)している人に対し「大声で叫ぶ」、あるいは「教える」意。*1

「命」イエスキリストの考え
 イエスの命に関する考えは革命的である。すなわち、
・「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(なる神)のもとに行くことができない。」*2 この発言はイエスが十字架にかけられる一つの原因になった。人間が命の支配者であることは考えられないからである。だがイエスはその命令(脅かし)に従わず、さらに人々にとって耳に痛い声明を出す。すなわち、
・イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、
父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
」*3 ・「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
」*4
世で生きる期間は制限されている。だがそれは自分の存在そのものは消えるのではなく形を変えるのである。
 結論として言えるのは、イエスが命の源について語るのは、私たち人間とは異なった神秘についてという事だ。イエスは「命についてではなく”命である自分自身”について語るのである」からである。

おすすめ(自己の選択)
 新しい年を迎えるとき、自分の存在の元や将来について考えればよい。この行為は自己の日常の関心事のテーマを深めることになり得るだろう。私事になるが、最近の発見で、定年になった人の中には、あらゆる病気について詳しく話そうとする傾向があるのに気が付いた。医学用語で病気の原因について話し、医療や薬などに関しても詳しい知識を持ち、ノンストップで話す人は少なくない。65歳以前の話題は仕事と給料に関することが多かった。私事だが、イエスを信じている人と出会うときは「元気ですか」の挨拶ではなく、「近頃、人の善さを少し理解するようになりました。今まで何で気が付かなかったのだろう?」あるいは「難民のこと」、「アメリカと北朝鮮との関係」のような話題を期待しているが…。命、生きることに関して、経済的・医療的なことは中心にすることではないからだ。将来的に、心による、命、生きる事への努力が中心課題だと確信している!
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1: 角川 字源辞書 107頁
2: ヨハネ 14:6-7
3: マタイ19:28
4: ヨハネ3:13-14

日付: 2018年01月17日

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私の思い(4件)

新しい年の初めにキッペス先生からのメッセージ(プレゼント)ありがとうございます。人生のグレードアップの箇所を読み昨年暮れ年賀状を書いていた時のことを思い出しました。新年の挨拶は冒頭に書きます(ときもあります昨年は印刷でした)。毎年、その後に何を書こうか相手によって苦慮する場合があります。今回は高齢の義母と過ごしたひと月の事を書きました。食事の介助に体は疲労していたけれど、長年のわだかまりが消えていくのを感じ心は満たされていたと。書きながらその体験が自分に及ぼした影響の大きさをあらためて実感しました。

sumire(2018年01月17日 21:16)

命それは自然界の全てと共に生きているものでもあると思います。寒い日、暑すぎる日、飢えている日、満たされている日、幸せを感じている日、悲しみを感じている日と毎日違った思いで私の命と関わらずには居られない神秘ですね。どの事も全てはその時に気づいたり、また後になって気づいたりプレゼントの中にある思いです。時に問題の中の課題を通して神様の真意、つまり小さな声と愛を感じ感謝して行きたいと思っています。

T.S(2018年01月18日 10:23)

まず贈り物へのリアクション
昨年、初めてセンター作成のカレンダーを送って下さり、使わせていただきながら、全くリアクションしなかったことを思いました。
何年もお付き合いをいただいている神父様やセンターの存在が当たり前になってくると、ついついこちらの事情で礼を失することをやってしまいます。
そのくせ12月の”イエスは友”の感想を出したという人の文が載っていないと、久留米の方はどうなっているのだろうと思ってしまいます。
人間としての根本的なところに自分の甘えや不誠実さが出てしまうようです。自分に与えられる事柄の一つ一つをしっかり識別して、応答できるようになりたいです。
今年のまた一つの課題です。

藤井昭子(2018年01月19日 11:11)

 一月の黙想を頂いてから
人間としての”いのち”(創造主である御父からいただいている命)を使い(使命)つつ
イエスの言われる ”永遠の命”に至るために日々の在り様を問われています。自分自身を生きるためにも・・
”イエスは命である自分自身について語るのである。” は。
”言葉に命があった。” と
聖書のヨハネの言葉を思いました。

 

yoshie ono(2018年01月31日 16:48)




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