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イエスに対する理解への努力・・・ 毎月の黙想2017年10月

イエスに対する理解への努力 or イエスを理解する努力

宗教改革を記念する

 現代の教会 *1
 現在、ドイツではキリスト教会を離れていく人々は多い。毎年、何十万もの信徒がカトリック教会やプロテスタント教会から離れていく。20年前、ドイツで初めての近代的ホスピスを訪問したときのこと。一人の女医が言った、「一番難しいのはカトリック信者の死です。」という言葉が記憶に残っている。難しいと言うのは、おそらく「カトリック信者の死」が感謝のうちに命の源に帰るではなく、裁判官からの厳しい審判を受ける=死ぬことは怖い!という思いを抱いている信者のことを言ったのだろう。このような恐怖感は信仰というよりも教会の教えや周りからの影響の結果ではないかと思う。イエスの教えは“喜びの便り=福音”ではなく、“罪から離れないと罰されること”が中心課題であったのではないかと思う。

 ちなみに私はあまり考えることなくレデンプトール会のメンバーになった。そのうち当会の特徴は「地獄の説教師」と言われていたことが解った。当時、イエスの教えは教会の解釈通りに信じ、それに従って生活を送らなければ厳しい審判を受けることになっていた。この“煉獄や地獄への恐怖感”は(当時の)信仰教育によって身に付けた結果だったと言える。このような福音の解釈は現代、教会離れが起きている原因の一つと言えよう。
 
  使命への動機づけ
 永遠に生きるためにイエスから要求される生活は決して楽なものではない。人間として相応しい生き方は、簡単でも楽でもないことは日々体験できる。イエスは自分にしたがいたい人々にそれをはっきりと伝え*2 、そのための見本をみせてくれた。タフな使命に納得するための動機づけは大事である。その動機には二種類、すなわちポジティブとネガティブなものがある。スポーツの世界で説明すると、選手に優勝を目指してもらいたいなら、身体的な厳しい訓練は自然な条件であろう。したがってコーチは選手に厳しいトレーニングへの努力と協力を得ようとするとき、ポジティブあるいはネガティブな方法のいずれも使える。ネガティブなアプローチの例は「しっかりしなければもう試合に出さない」と脅かすことである。それと異なりポジティブなアプローチはスポーツによる喜びを起こさせることである。たとえば、例「君たちならできる。信頼する」のように。言いか換えると「負ける怖さ」対「できる自信」!「敗北者」対「優勝者」、「負ける劣等感や恐怖感」対「できる人としての満足感」など。動機づけはキーポイントになろう。それによって人生観も変わる。
 イエスの福音に関しても同様であろう。イエスに呼ばれ、選ばれたプライドに励まされて、苦労してもその呼びかけにしたがって生きようとすることもあれば、罰されないよう、地獄の状況つまり神から離れた状況へと見捨てられないように言わば仕方なく、強いてイエスの呼びかけに従おうという人もいるだろう。

 500年前の教会
 500年前、当時の教会のイエスの喜びの便り、つまり“福音”の解釈は「罪とその結果である命の源からの分離、その状況からの解放」であった。その解放を得るためには、教会の教え(イエスの教えの解釈)を信じ、それにかなった生き方を身に付けることが条件であった。だが人間はいくら立派になっても、完璧には生きられない。そのために教会の頭(ローマ法王はイエスからいただいた権利によって罪を赦すことができる。*3 )が決めた一つの方法はローマまで巡礼し、お金を支払い、決まった祈りを決まったとおりにすれば“免罪符”をもらえた。それを自分のためだけでなく、旅立たれた身内*4 のためにも利用することができる/できた。この方法は、罪が赦されることよりも教会の責任者の生活費や豪華な建物を造るために使う目的のようだった。

 ルターの痛みと教会改善への働き
 ルターは自己の生活体験による内面的な苦しみに思い悩んだ。大学生のとき稲妻を体験し、それに殺されないためには「修道院に入ります」と約束した。修道士になり、規律が厳しい生活や身体への厳しいムチ打ちに励んでも心の平安を得られなかった。さらに当時の教会の有様は“福音らしさ”はなかった。そこで福音の改善による信仰生活のための、内面的な解放のために95の命題(thesis)を作成した。それを教会で討論したかったが、否定され、再びルターは厳しい生活様式に縛られ続けた。
 今月31日は、500年前にルターが社会に知られるようになった記念日である。いわば教会の改善のために公然とプロテスト活動を始めた。このプロテストによって出来上がった宗派は「プロテスタント」と名前付けられた。*5  改善の中心課題は教会の教え、おきてや習慣にしたがうのではなく、人の姿となられた神の言葉としてのイエス・キリストのみにしたがう。いわば「聖書を重視した信仰生活」になった。だが当時の教会はそれを認めず、ルターを教会から追い出し~excommunication=コミュニケーションから離すこと~さらに当時のローマ皇帝CharlesⅤはルターの命を保護することを否定した。言いかえれば、だれかがルターを殺しても、それは違法ではないことを宣言した。*6
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1: ここでいう”教会”とは”ローマカトリック教会”を意味する。
2: マタイ 10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。マタイ11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
3: マタイ 16:18  わたし(イエス)も言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
4: 亡くなられた方。
5: ラテン語“protestari”という。
6: 1521年。

日付: 2017年10月10日

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私の思い(1件)

今月のテーマはとても重い物ですね。教会を離れると一言で言ってもそれは様々で何となく忙しくて行かない、内部の人間関係で足が教会に向かない、教義を学んだが故に心の葛藤の為に全く神様に近付けない気持ちになった等々あると思います。又、行ってはいても心はこの世に有ったり、仲良しグループとの再会が楽しみであったり、反省課題は山積しています。今ここに居る感謝と不思議を想い日々祈る習慣こそがとても大切だと感じました。愛されたいのは私達ではなく神様ご自身だと思う時可哀想で離れられなくなりますね。喜ばせたいですね。

T.S(2017年10月11日 10:08)




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