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内なる声の意識化 毎月の黙想234号 2017年7月

内なる声の意識化


 ドイツで入院したときのこと。外科医長と三人の若い医師が治療にあたってくれた。ある日曜日、担当になった一人の若い医師から「話したい」と願われた。話の中で「『もっと祈った方がよい』と父に言われた」ことを分かち合ってくれた。この出来事が私に意外に思われたことが二つあった。一つは若い医師が相談に来たこと、もう一つは「祈りの必要性を父親から言われたこと」であった。ちなみに彼はイスラム教徒だった。
 「平成28年熊本地震」でのこと。被害を受けた外国人の話を聞くカウンセラーの体験である。カウンセラーは被害者の一人に「今、何か心の支えになっていることはありますか」と尋ねたところ、相手は次のように応えた。「祈ることです」。カウンセラーは「祈ることが支えになっているのですね」と言うと、相手は
「祈りは考えにつながり、
考えは行動につながり、
行動することは愛することにつながり、
愛することは共に生きることにつながります」。
この方もイスラム教徒だったことに、私は強いインパクトがあった。というのは私と同様な信仰をもっている人から、「祈り」や「祈ってください」を耳にすることはあっても、祈りによって生き方に与える影響について今まで深い話題にならなかったからである。

 内面的な会話
 私個人のことである。私にとって祈ることは「命の源と共に居させてもらうこと」である。言葉や歌のほかには沈黙が多い。沈黙と言っても退屈も多い。余裕があるとき「御父・イエス・聖霊(三位一体)」のイコン(画像)をみることもあるが、個人的なこと(問題)に煩わされるとき、「生きているパン(聖体)」を納めている所(聖ひつ)をみている。不思議に思う!いざとなったとき「本物(イエス)との出会いが生きてくる」ことの体験ではないか?「イコン」は生きていないが、「(聖体) イエス」は生きているようだ。不思議な現象/現実!ちなみにこのことを今朝、文章を書く前にはっきりと体験した。

 内なる声
 最近「Facebook」に掲載したことば。「傾聴はライフワークであり、重労働でもある。傾聴の出発点は自己の内面的な声を聴き取ろうとする訓練から始まる。そのためには日々に静かなときを設けることが不可欠であろう。
 『傾聴ボランティア』の先生はまるで『お釈迦様』だ。口を結び、目をほとんど閉じ、二つの大きな耳をもっている」と。 budda.jpg
 それに対して次のコメントがあった。
・「傾聴の出発点は自己の内面的な声を聴き取ろうとする訓練から始まる。」
・「お釈迦さまの眼は半眼と言い、半分は外の世界、半分は内面の世界を同時にご覧になっ  ていると言われます。傾聴に通じるように思いました」
・「耳は大きなのが二つ、口は一つであることをすぐ忘れてしまう私です。心します。」

 内なる声はさまざまである。それらを弁えるのは個人のライフワークの課題である。健全なものもあれば、自分を絶えず苦しめるものもある。そのためには「精神的な声」と「心の声」を弁え、さらに両方を活かせる声(善)と内面性を複雑にさせる声(悪)があることも認識する必要がある。
以下に例を挙げる。

 心理的:
 ・現実をプラスの目で見て、それを体験できる。例:晴天と曇り空を同様に受け取る。
 ・現実をマイナスの目で見て、受け取る。例:現在、晴天であっても「でも明日は雨が降るようです」とNHKが言ったと加える。

 心:
 ・自分の評判にマイナスであっても、自分の行動の善し悪しをありのまま告げる。
  これは”善”である。
 ・意識的に真実をごまかすこと。 これは”悪”である。

 「上の者 *1 (神)」の耳
 最近の出来事。ある音楽教授は”モーツァルトのミサ曲”を何度となく教会で演奏をしていた。だが「上の者」を信じていなかった。あるとき突然、その方の声が出なくなった。声を失い、教えられないことは将来への不安になった。そういう状況にあった彼は、誰にも気づかれずにある聖堂に入り、「上の者」に回復を願った。その後数日間して、声が少しずつ出るようになって初めて、「上の者」の存在を認めるようになった。「上の者」にも「耳」があり、その応答は言葉ではなく、「行為」だった/である。

 「上の者」の特徴
 毎日、私たちが生きているのは「上の者」のお陰(言葉)である。だがそれは当たり前になり、声として聴き取る機能は鈍くなっている。命をはじめ、日々に出会う「上の者の特徴」を見る目、発見するための知識を磨けばよい。でなければ自分の中心(心)は光よりも闇になる恐れがある。日々出会う人との挨拶の質は互いの心のありようを感じさせる。すでに10年以上になるにも関わらず、日々の散歩の途中で出会うある方は自分から挨拶することがない。「暗闇」との出会いである。逆に一人の方は、遠方からでも明るい顔で手を振って挨拶してくださる。心がいやされる!

 イエスを信じている人の特徴
badge.jpg 最近、ハンディをもつ方々と共同生活をする一人の男性と、仲間7人ぐらいでそのグループの研究する人間関係のひとときを味わう機会があった。ある一人の女性を中心にして、他の人は彼女のprivacyに関わるような、言わばデリケートなことも質問した。彼女はその質問に正直に答えていたことに驚いた。ハンディによって、ハンディがあるからこそ生き生きした人々のグループであった。
 もし司祭や信徒がこれほどの親しみ、自由な関係を持つことができれば、たとえイエスに従って人生を生きようとする人が増えなくても、内面的に生き生きとしたイエスの証人になるのではないだろうか。共に生きることの中心は教えによるものではなく、関係なのである。
 イエスを囲む人たちの特徴は一人だけでは生きられない、いわばさまざまなハンディをもっていた人々であった。他者の手助けがなければ生きられなかった当時の人たち。
 もし現在の信徒が礼拝後に少しでも、正直な分かち合いができるならバーゲンに行くよりも心を活かし合えるのではないだろうか。
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1: ここでは音楽教授の用語をそのままに使った。なぜなら教授個人の体験による表現だからだ。私自身は「神」と言うが、この表現は私の体験からではなく、学んだものである。ちなみに偉大な力を体験せずに「神」と言うのは、ことばに過ぎないのではないだろうか。

日付: 2017年07月04日

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