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「心の育成 記念」 毎月の黙想 2017年5月232号

心の育成 記念


「結婚式で緊張し、(誓いを含めて)何も覚えていない」という医師の発言が記憶に残っている。

自分の体験 (私事)
今年、イエスを記念するための四日間の礼拝(儀式)に参加した。
・イエスは弟子たちとの最後の晩餐、
・イエスはゲッセマネでご自分の使命、すなわち、「人間(私とあなた)を悪の支配から救う」ために捕らえられ、軽蔑され、悪人と共に十字架に架けられた残酷な死刑を受け、「運命」に従順であろうとする内面的な闘い、
・ご自分の残酷な「運命」を実際に受けられたこと、
・死後“よみ”に下り、
・そして3日目に復活されたこと。

以上の4日間に行われた記念の内容説明や説教、聖書朗読、賛美歌や祈りなどから、自分を内面的に深められる事柄を見つけることは非常に難しく、不可能に思えた。儀式の間にほんのわずかでも瞑想できる時があったなら、最小限でも内面的に深まり、イエスとの関係、御父や聖霊との関係を少しでも深められたのではないか……。これは子どもの頃、お祝い日に食べ過ぎで腹痛を起こしたことを思い出させた。その時、もし普通に食べていたなら、お腹も壊さずにその日を楽しく過ごせたのに……。つまり、「過ぎたるは及ばざるが如し」である。


内面性?

礼拝や祈る行為は、自己の内面性(信仰)を深めるための行為と理解している。再び私事になるが、その日の聖書朗読(福音)の一言を熟慮することで内面的に満たされることがある。例えば、復活祭後、記憶に残った福音の一カ所を瞑想し続けた。それは「(イエスが復活された)日、イエスの弟子である二人が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事(~イエスの裁判と死刑)について話し合っていた」。*1  言いかえれば、この二人にとってイエスの“運命”は衝撃的なこととして記憶され、話題になっていた。これは、私や礼拝に参加した人々とは大きく異なっていた。というのは、その4日間の礼拝後はイエスの“運命”ではなく、礼拝のやり方、自分たちの苦労(準備)などを話題にしたからだ。「ご苦労様でした」とか「よかった」のように。家に帰る途中、知り合いに会った時も、イエスの“運命”、すなわち、その死刑、死と復活(の記念)は話題にならなかった。エルサレムからエマウスに向かいながら、イエスのこと(運命)を話題にした二人の男性とかなり異なっていたのは事実である。

イエスのことがテーマに上らない“記念”・“礼拝”とは何だろうか?

ちなみに、昨年末から上映中の「沈黙」について、言わばイエスへの信仰は殉教するほどまで守れるか、それともイエスとの関係を断ち切るのか、司祭や信徒の間で話題になっていない事実に考えさせられている。「沈黙」が上映されてから、すぐに観た同僚の一人の発言は記憶に残っている。「三時間、疲れた。人殺しばかりだ!」と。


信仰 内面性の育成

習慣的な礼拝や聖書朗読によって、自己の内面性が自然に深まることはないだろう。豊かな心を育成するのは、各人の(厳しい)日々の課題だからだ。現代、欧米のキリスト教離れは常識になっている。街の中心にあるドームやカテドラルなどの建造物、バッハのような霊的な作曲家を輩出し、殉教をいとわずにアフリカ・アジア・アメリカへ宣教に出かけたことなど、2000年の歴史があるにも関わらず!

信仰は儀式や伝統によるものではなく、内面的な関係の育成による在り方なのである。

以下に、内面性を深めるためのいくつかのヒントを述べる。*2

・内容が分からない時、それを正直に表現すること
例:この課題についてわたしは知識がありません。(分かった振りをしないこと)
・聖書を理解するには研究が不可欠である。そのために、言葉の内容は生活を通して体験できるように努力すること。(例:人に軽蔑されたり、無視されたりした時のことを思い出してみる)。

聖書の文章や言葉は自然科学的な意味ではなく、神秘的な体験を最小限でも理解できるためのヒントに過ぎないこと。そうでなければ原理主義になりやすい!

例:「初めに みことばがあった」*3 と読んでも、二つの単語の体験がない。一つは創造主(神)には「初め」はなく、「永遠」だからだ。私たちの「初め」の感覚/理解とは根本的に異なっている。「みことば」も同様である。「神」=「存在」そのものには私たち人間のような体がなく、言葉を発する声も口もない。聖書(超自然)を聞き、学び、理解するには個人(人間)としての体験や機能だけでは不可能だ。超自然に対して「こうです」とも、「こうでない」とも言えないからだ。

・物事と出会うために静けさを身に付ける。それは特に、心配した時には重要な要因になる。落ち着きを壊すのは内面的な喧噪(けんそう)である。内面的な静けさを得るには時間をかけることが不可欠である。
・自己との出会い。ありのままの自分を体験できるように努めること。
・自分のよさ、使命、価値などをつかもうとする。
・リラックスすること。(例:風呂を味わい、楽しむ。眠る準備としてのくつろぎのひととき)
・自分が恵まれていることを味わう。(例:よく寝られること)
・内面的な深い体験は、他者に話す話題としてではなく、自己の内面性を深め続け、忘れないこと。
・身体的な部分をも大切だと意識する。

実行は、
「今から」、それとも
「まだ早い」、
「しばらくしてから」、
「いつか」、
のどれかを、内面性を深めるために正直に決定することは大事。言いかえると、考え、希望や願いだけに留まらずに、具体的な出発時点を決心する。

信仰は体験によって深められる。研究は討論の材料になるが、信仰=超自然者との関係を深める/強めるかはQuestionである。最初に取り上げた、イエスに実存的な希望をかけた二人の男性にとって、イエスの損失は、自分たちの人生を転換させるほどのショックなテーマになっただろう。イエスへの期待に満ちた彼らの信仰は、記念や儀式ではなく実存的な話題だったのである。イエスへの信仰は誰であっても試練によって本物になるのではないか。

おわりに

私個人として、イエスの厳しい「運命」の記念を行う際、三つの点が問題になる。すなわち、
・聖金曜日の受難朗読の時、私は『十字架につけろ!』と言えないこと。*4
・聖土曜日のモーセがエジプト軍を海に投げ込み、殺す場面の“賛美歌(?)”を一緒に歌えない/できないこと。*5
・聖土曜日の「洗礼の約束の更新」での、『悪魔を捨てますか』を考えることなく、簡単に『はい、捨てます』*6 と言えない。

私にとって御父・イエス・聖霊との関係は、儀式ではなく実存的なひとときでありたい。

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1: ルカ24:13-14。
2: 全てのヒントは私のオリジナルではないが、説明は私の考えによる。
3: ヨハネ1:1参照。
4: 「十字架につけろ」のような暴力や残酷なことばを口にしないことだからだ。
5: 現代のエジプト人がそれを聞いてどういう気持ちになるだろうかと考えるからだ。
6: 悪魔を捨てることは、まず自分の生活を反省する必要があるので口先だけでは言えない。言えるのは「捨てるように努力します」と。それは私の本心だ。

日付: 2017年05月10日

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