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「生きておられる方」 毎月の黙想 2017年4月

「生きておられる方」


 イエスは殺された。米国国務省によると、現在60カ国以上でイエス・キリストを信じる信徒は、各国政府や居住地付近で迫害にあっている。*1  なぜだろうか。今月、「イエスの死と復活の記念」を行ってそのことを思いめぐらしている。イエスは辱められ、軽蔑され、罪人として十字架に架けられ、死んでいるにもかかわらず、脇腹を槍で突かれた。誰もこういう死に方は望まないだろう。イエスもそうであり、父なる神に、「できるならこの試練を取り除いてください」と願った。*2  同時にイエスは、殺されてもご自分の存在は消えず、「本当に生きる状態」に移り代わるときであると確信していた。それはイエスにとって「死」は万事の終わりではなく、真の命に移り変わる通過点であったからだが、そうであっても残酷な死は望まなかっただろう。現代、殉教を余儀なくされているキリスト者もまた、そうではないか。
 キリストを信じる人々にとって、「イエスの死刑(死)」は単純に記念するものではない。あまりに酷(むご)い出来事であり、十字架を飾ることは、私にとって気持ちのよいものではない。カトリック信徒のある男児が家の中に飾られた十字架を見て、「これを取って、怖い」と母親に言った残酷な場面。さらにその場面に慣れてしまうことは怖い! 信仰(信念)のために残酷な刑を受けるのは怖く、望ましいものではない。昨年末から上映中の映画「沈黙」は、この事実を物語っていないだろうか。
 十字架や殺人だけでなく、長年の病による死もまた万事終わりであるなら、人生に果たして意味があるだろうか。私はそのようなことはないだろうと思っている。苦労、ハンディ、病には何らかの意味があるはずである。私独自の考えではなく、イエスへの信仰から学び、確信したのは、「死は万事の終わりではなく、真の生きる状態に移り変わる時」であると。
 イエスは金曜日に十字架に架けられて殺された。それは午後3時頃だった。ユダヤ人にとって土曜日は安息日(仕事をしてはいけない日)であったので、イエスの身体を早めに仮の墓に納めた。安息日の翌日、正式に葬ることにしていた。*3
 以下の聖書の箇所をゆっくりと読んで(瞑想して)ください。
 週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。*4
 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
*5
 イエスの名前は、父ヨセフと母マリアが親戚や親しい人々から勧められたものではなく、インスピレーションによるものであろう。「イエス」の意味は、「ここにいる存在(ヤーウェ)は救い」である。ピラトがイエスを十字架につけたときの名前は、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」だった。イエスに選ばれた弟子たちはイエスを、「主」や「先生」と呼んだ。復活されたイエスを宣教したときは、「ナザレのイエス」「キリスト(“油を注がれた者”というタイトル)」「イエス・キリスト」を使った。その結果としてイエスを信じる人々は、シリアのアンティオキアで初めて、「キリスト者」と呼ばれた。*6
 イエスを信じている人はイエスに対してさまざまな称号や敬称を使っている。
例:「主」「キリスト」「神の子」「あがない主」「神」「神のみ言葉」など。
 イエスを信じている人々にとっては「イエス」より、「主」「キリスト」や「神」と名付けることに親しみを感じているようである。今日、そして今、自分を呼んでいるイエス、自分と関わっているイエスの体験はあまり聞くことがない。特に礼拝の時(ミサ)、イエスとの関係は儀式的になって、パーソナルな出会いはどれだけ期待できるだろうか。日々の生活でのイエスとの関係とは?
 日々使っている用語にパワーを感じられないことが少なくない。「神」や「キリスト」、「主」はその例である。イエスを信じ、生きているイエスを何らかの方法で体験した人々は、「キリスト」や「主」の用語よりも、「イエス」に新鮮な雰囲気がもたらされることを体験している。もうだいぶ昔になるが、アメリカ人のシスターが「イエス」と言った瞬間に、温かさや親しみを感じ、涙が出たことがある。イエスとの生きた関係に恵まれるように聖書の箇所を調べてみたらどうか !
イエスご自身がご自分を表現した時の例:
*「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 」(ヨハネ14:6)
* イエスはあるとき弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか 」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」(マルコ8:28-29参照)
イエスはご自身を次のように紹介した:
* 「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 」(ヨハネ 13:13-14)
* 「人の子(=ご自分)は安息日の主なのである。 」(マタイ12:8参照)
* 「人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。 」(マタイ12:40)
* 「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの『師』は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
」(マタイ23:8-10)
 私ごとだが、私は「司祭」とか「神父さま」ではなく「先生」と呼ばれるほうが好きである。「司祭」とは「祭儀を司る役割」、「神父」とは「神の父」のようなイメージがあるので納得できないからである。「先生」と言われるのには確かプライドが含まれている。だが、「先に生まれた者」なら、ごく自然に聞こえる。「先に生まれた者」は生きる体験や英知などを持っていることを要求され、それが精いっぱい生きる刺激にもなっている。
* 「わたしと父(唯一の神)とは一つである。 」(ヨハネ10:30参照)
 「イエス」「ナザレのイエス」は名前であり、「キリスト」「主」「神の子」などは肩書のようなものである。
 復活されたイエスを婦人たちに紹介した天使たちの使用したタイトルを探してみれば、日常生活で(特に死にたいほど苦しんでいる際)力になるだろう。
それは___________________________________だ!*7
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1: According to the United States Department of State, Christians in more than 60 countries face persecution from their governments or surrounding neighbors simply because of their belief in Jesus Christ.
2: マタイ26:39 イエスはうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
3: アメリカ滞在中、驚いた事の一つは金曜日の夕方、ユダヤ教の人たちが住んでいた家の窓のカーテンは閉められていた。安息日(土曜日)の始まりを守るために、暗くなる前に済ませたことであった。
4: ルカ24:1~8
5: ルカ24:9~12
6: 使 11:26 このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。古代の西シリア、オロンテス(現アシ川)河畔に建設された都市。現在はトルコのハタイ県の県庁所在地であり、アンタキヤと呼ばれる。
7: 確認するにはHP Jesus-onlineへどうぞ!

日付: 2017年04月10日

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私の思い(1件)

「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」
というみ言葉を聴いて、ふとキッペス先生が浮かびました。ん?キッペス先生の携帯電話📱?
always with you!
確か、キッペス先生が携帯電話を購入する際、機種を選ぶとき、この言葉が気に入って、それは、まるでイエス様がわたくしに、そのように言ってくださるようで嬉しくなるからと、以前までわたしたちに分かち合ってくださいました。また、わたしを「イエス」あなたを「自分の名前」に置き換えて読むことをおすすめしてくださいました。「イエス様は世の終わりまで、キッペス先生と共にいる」「キッペス先生は世の終わりまで、わたしたちと共にいる」(キッペス先生はわたしたちのために祈り続けていてくださると、感じられました。)
胸に熱く込み上げてきて、キッペス先生に感謝しています。誠実で忍耐強いお祈りと「気」を感じた日でした。
2017.5.28  

内田明佳(2017年05月29日 1:48)




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