毎月の黙想
心のグレードアップ 2012年1月の黙想
お正月には久しぶりで身内が一緒に元気な顔を合わせることを期待し、喜びと一安心のときとなるのは例外ではないでしょう。逆に親しい人が来られない、あるいは来ないなら、そのお正月はかえって辛く、寂しいひとときになるかもしれません。日本のお正月の気分は、ドイツならクリスマスの気分です。昨年10月、同級生の一人がこの世から旅立ちました。「今度のクリスマスはどうなるでしょう。彼が居ない…」とその奥さんは電話で鳴きそうな様子で話してくれたことばが印象に残っています。今年のお正月は東日本の多くの人々にとって辛いひとときでしょう。
「あけましておめでとうございます」という挨拶は簡単ですが、その意味を考えるといろいろな気づきがあります。「明ける」とは?それはただのいっとき、わずかな時間のことでしょう。「明ける」のは時間よりも心の状態に左右されることです。昨年の正月から3ヶ月後に起きた震災と人災は、東日本ばかりでなく日本全体の皆さんの心の応答を要求してきました。震災と人災に対して心、考え方、生活様式はどう変わったのでしょうか。直接の被害を受けた人は日々心の問題とぶつかったり、闘ったりしているでしょう。それ以外の人は少しでも連帯感をもち、新しい状況に応えるように生活様式を合わせたでしょうか。この「あけましておめでとうございます」は単純な挨拶としてではなく、勇気をもち、心の状況を新たにする刺激になります。
まず、新年を迎えることは当たり前ではないこと。同様に身体的な健康をはじめ、知的(例:痴呆症)、社会的(例:職業)、心理的(例:挨拶すること)、心(例:正直であること)、スピリット(例:前向きに問題とぶつかっていくこと)、魂(例:自分自身の価値の認識)など、それぞれの健康(健全さ)は変化しないものではなく、絶えず変わり得る要素です。これらの要素を育む意思(=心)の度合いはどのくらいでしょうか。
70歳代の一人の母親の「心を育む履歴」を述べます。本人の状態は次のようです。がんで何回も手術し、全身にがんが転移し、声は自分の声でなく、機械の声です。呼吸器の前にあるネジを回すと声がぜんぜん出なくなり、また回すと声が聞こえる。「前は声がでなかったので、筆談だった。そのときは自分のことが伝わらなくて、いらいらし、
コミュニケーションをしなくなったし、食べ物も鼻腔栄養で味もなく、うつみたいになって、寝てばかりいたし、死ぬことばかり考えていた。死を待っていた。声が出るようになって、自分のことが伝わり、周りの人もよくしてくれるようになったら、ぜんぜん違ってきた。ベッドから起き上がり、感謝でいっぱいになった。声に感謝だよ。声がでたら、皆にも感謝できるようになった。
固形物は食べられないけど、一つずつペースト状にしてくれるので、口に含んで舌で味わえば、色や形は悪いけどとてもおいしいのよ。前は食べるのが嫌いで1/3くらいしか食べなかったのに今は、うれしくて、どんどん食べるようになった。
息子が『長生きしてくれ』と言ってくれるけど、前はしんどくて人の気持ちも知らないで、と思ったけど、今はできるだけ生きて、息子を喜ばせようと思っている。
味を感じさせてくれる舌にも感謝しているのだよ。食べるのが楽しくなったからね。人間には無駄なものが一つもないんだ。全部必要なんだ。」
この母親は自分に負わされた好ましくない不自由な状況(運命)を医療の技術に助けられて受け入れ、体を意識しなくてもよい状態になったことよりも心のグレードアップができたのでしょう。病気や不自由さ、困難などをよいものとして評価するのではなく、心を育むきっかけとしてつかむことは「前向きな生き方」ではないでしょうか。この母親がイエスを信じている方であるかどうかはわかりません。だが、イエスの状況を思い出します。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」 さらにイエスは「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」 と言われたことばの内容に考えさせられます。人生はスムーズな道ではなく、場合によって苦労を(たくさん)含む旅路です。目的は心を洗練することにあるのでしょう。
今年はイエスが望んでいる「心の年」であるように
Let It Be!
私の思い(4件)
家族が割れて一人になって5年目のお正月です。私は両親はいますが二人には婚姻関係がなく、母親は一人認知症になり施設にいます。私も一人っ子です。親戚は母親の若かったころの男ぐせに愛想をつかし母を絶縁。そのような状況なので誰も訪れることのないお正月です。年を明けることにも感動が覚えられません。私にとってはいつもとかわらない日が一日過ぎるだけのこと。その日を境に生活がかわるわけではありません。昨年は東日本大震災で日本中が「絆」という言葉で沸いていましたが、私にとっては「絆」という言葉は意味のないものでした。家族の関係が直るわけでもなく、施設の母に面会すれば不満をたらたらと聞かされ、一方、居場所である教会においては東日本支援策をめぐって教会の中で意見が割れ、意見の取り扱い方が原因で、教会に行きたくなくなったり、地域の企業や自分の職場で大量解雇が行われ人間関係がおかしくなって、友を失ったり、いったい私は何のために生きているのだろうと自問すれど、わからなくなってしまった年でした。
これでも、人生の苦労は心の洗練のためとおっしゃいますか?
「・・・・しかも豊かに受けるためである。」が心のグレードアップ、心の洗練という言葉と合わせて響きました。
以前からこのフレーズが好きでしたが、「豊かに受けるため」は心を無限の世界に誘ってくれ、私の存在の肯定と祝福がそれこそグレードアップされる思いがします。
心を高揚させる適切な日本語をいつもいただき、ありがとうございます。
A,F
今月の黙想の中のご婦人の気持ちは何故か自分ととても重なる部分が多く、心に響きました。私も良く息子や娘から「お母さんは私達にとっても、孫の為にも大切だから無理をしないようにして長生きして下さい。」と言われ十分に親孝行をしていただき、儀礼的と思ったりすることもありますが、でも生きている私を見る子供達の顔を見ると、とても嬉しそうなので、やはり生きる、生かされているという事は存在そのものが自分を超えて人の為でもあると感じている今日この頃です。
“今年はイエスが望んでいる「心の年」であるように”
心の年とは、どういう年なのか考えさせて頂いています。今年の課題です。
一人のお母さんの言葉「人間には無駄なものが一つもないんだ。全部必要なんだ
」の言葉が心に残りました。好ましくない不自由な状況を受け入れ、医療の技術に
助けられながら、不自由の中でも少しずつ改善されて行く度に感謝されていること
に心ひかれました。
好ましくない状況の中でも静かになれば、感謝出来ることがあります。その事に
気づくことで、イエズスの心に少し近づけるのではと感じさせて頂きました。神が
お造りになったものに無駄なものは一つもない、それぞれに必要な役割を持ってい
る事もあらためて感じさせて頂いています。
生かされている事に感謝
(I.S.)
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