毎月の黙想
わたしたちの父なる神 対 わたしの父なる神 11月の黙想
わたしたちの父なる神 対 わたしの父なる神
国連人口基金の統計によると10月31日で世界人口は7, 000, 000, 000人(70億人)に到達するという。1804年に10億人、それから123年後(1927年)20億人、1974年~1987の13年間で40億から50億人に増加した。今日まで1,050,000,000,000人がこの地上に生きてきた。現在、1秒ごとに2,6人の赤ちゃんが生まれるが、どういう世の中に、どういう社会/世界に生まれてくるだろうか。ちなみに、以上の数字ははっきりしたデータではないことを言い添える。というのはほとんどの国家は信頼できる人口統計を有していないからだ。
人間、わたしとあなたは何のために生まれてきたのだろうか。「死ぬならどうして生まれてくるの」とある少年は父親に問いかけた。あるいは「わたしは歳を取りたくない。(わたしが歳をとれば)お母さんは死ぬから」というある幼児の叫びを自問自答すればどうだろう。人間(自分)とは?生きることとは?死ぬこととは?
環境問題を研究する知り合いの方は10月のニュースとして次のことを伝えてくれた。「野田総理は、脱原発といいながら、世界的な原発反対の動きを無視して海外への原発売込みに積極的で、ヌラリクラリとウナギのように舵取りをしている。タイでは洪水、トルコでは地震など、世界中で災害があるが、世界の人口は今月中に70億になるそうで、これも災害の一つと認識されている。逆に日本では人口は減少しているので、原発の新規開発は必要なくなるのでは?」と。この世の中に生きている自分とは?
70億人目の誕生を祝いながらも、10月20日(31日の11日前)リビアで42年間にわたって独裁政権を続けたカダフィ大佐(69)が、出身地のリビア中部シルトで死亡した/殺されたことを喜んだ人は少なくなかっただろう。わたしは独裁政権が人間的ではないことに賛成はしても、独裁者を殺したことを喜ぶことには抵抗がある。その人を殺しても「悪」そのものは消えない。悪人が善へと変化することが望ましいからである。
生きることとは。昨日(11月1日)ある国立大学の医学部1年生に講義をさせてもらった。「全人的ケア」の必修科目の中で「スピリチュアルケア」がテーマだった。必修科目しかも3時間(9時~12:10分)の講義であった。そのため、学生の積極的な参加を促すように講義中「(この必修科目)講義に対する関心度合い」「人生の意義」「人生の目標」のワークシートを配布し記入してもらった。こうしてもある学生たちは途中で何度も寝てしまった。最後にわたしは「それでは講義を終わります」と言った後、学生から何の反応もなかったことに驚いた。今までに講演や特別な講義を年に数回させてもらうことがあるが今回のことは驚きだった。ちなみに担当教員は、学生が最後に頭を下げ、それがお礼の形であることを説明してくれた。そうであってもわたしには彼らの態度は意外に感じられた。将来の医師とはこういうものであろうか。幼稚園は別として、高校を卒業するまでの12年間の教育は何であったのか。この講義を受講に来た50代の婦人は「学生の学ぶ欲求のない態度に驚いた」ということばはわたしの気持ちを反映してくれる。学ばない学生とは?
最近のこと。ある人の真実さについて考えていて疑問に思ったとき、その方も父なる神のものであることを意識した。というのは「父なる神」はわたしだけの神ではないと悟った。イエスは神を「わたしの父」と呼ぶ/呼ばれるが、わたしは「わたしたちの父」としか言えない。この事実が気になってもならなくても、父なる神は「わたしたちの父」であり、「わたし(だけ)の父」ではない。複雑な人間関係から「自分(だけ)の神」に逃げられない(悔しい)現実である。
10月31日、東京・内幸町の東京電力本店で園田政務官は、福島第1原発の処理水を「飲水するレベルである」と強調し、報道陣の前で福島第1原発5、6号機の滞留水の処理水をコップに入れて飲み干すというパフォーマンスを演じた。この場面を視て、ソクラテスが毒杯を飲んだことを思い出せざるを得なかった。飲むことを要求した報道記者に同じ事を要求したならどうだったのだろうかと疑問が残った。
最近のこと。自殺を何回もくわだてた人の話である。「人間は信頼できないし、自分の存在に価値がないから自死を計画した。自分の場、スペースがほしい」という。信頼できない人、信頼に値しない人もみな「わたしたちの父なる神」のもの。
「父なる神」について黙想したときのこと。「父なる神」と言いながら「わたしの父なる神」という固定された概念に気づいた。だが「わたしの父なる神」ではなく「わたしたちの父なる神」であることに変えざるを得ない。これは厳しい事実である。他者がいやになったり、人間関係が好ましくなくなったり、協力してくれる人と信じてきた仲間が急に縁を切ってしまうときなど、こうした人たちはみな「わたしたちの父である神」のものだと強く気づかせてもらった。否応なく生まれてきた者はみな「わたしたちの父なる神のもの」であることを否定できない。イエスのみが「わたしの父なる神」と言えるし、わたしたちは「(天におられる)わたしたちの父」としか言えない。わたしたちの父であるから、だれでもわたしの兄弟であろう。それを言うのは簡単であるが、実行して生きるのは重労働(=闘い)であることを日々体験している。
「我々は皆、唯一の父を持っているのではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ兄弟が互いに裏切り、我々の先祖の契約を汚すのか」と。*1 他者、生まれてくる人を同じ父のものとして認めようとするために「十字架の死に至るまで仕える者となられたイエスに近づくために、気に入らない人や会いたくない人々も同じ父のもの、いわば兄弟であることを、時たまに、最小限でも意識するときがありますように願いたい。
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1: マラキ書2:10
私の思い(5件)
「わたしたちの父なる神 対 わたしの父なる神」を読ませて頂きました。
「学生の学ぶ欲求のない態度に驚いた」という一節には、現代の日本の学生の精神的頽廃がよく表れていると思います。このような状態は、第二次大戦後顕著になったものです。敗戦後の価値観の多様性が生み出したものだと思います。しかし、近い将来日本人は「日本人とは何か」「日本の歴史と伝統とは何か」が見直され、精神的にも立ち直ることだろうと思っています。
また、「気に入らない人や会いたくない人々も同じ父のもの、いわば兄弟であることを時たまに、最小限でも意識することがありますように」。私は世界の平和を祈っていこうと思います。世界人類が平和でありますように。
Möge Friede suf Erden sein.
アダムとイヴゥを神がお創りになられてから今日まで、この地球上に人間はどれほどの数、生み出され続けているのだろうかと思うことがあります。
そしてそのいかなる時代にもその一人一人には人間としてのドラマが当然あっただろうと。
いかなる時にも変わらないのは唯一の神であり、そして人間もつねにはかなく、悩む存在として変わらずに今日に至っていると。
唯一、人間の心を統べて下さる存在がありながら、未だにわれわれ人間は闇の中を歩んでいます。
-------------- 2011年11月10日
この地上に生きることとは?生きることとは、死ぬこととは?
この世に生きている自分とは?生きることとは?
この世の様々な出来事をとおして生きることを考えさせられる。「父なる神」と言えるのはイエスのみ、私達はみな兄弟であって「私達の神」として受け入れるのみである。
しかし、そのことが日々の闘いである。
到底兄弟と思えない考えの違う人ばかり・・・裁いてはいけないと言われるのも辛い。私の願いと神の願いも同じだと思えない。何故?どうして?は解決にならない。ある時は理解できないまま受け入れ、ある時はわからない!と正直に言う。私の願いが何一つ適わなかったとしても、信じ続け歩み続けるものでありたい。アブラハムのようにヨブのように・・・。M.R
------------------------ 2011年11月07日 21:30
私の父、私達の父、とても深い課題だと思い喜んで心を開き拝見させていただきました。が世界の人口から始まり、生きること、死ぬ事、環境の問題、原発について、カダフィの死について、そして医学生の態度について、園田政務官の行為、自殺未遂者の心の事、最後にやっと待っていた父なる神に触れて頂きましたようで、何だか心の中で振り回され落着きませんでした。関連性こそ有るとは思いますが、どれもそれ一つで月の黙想が出来るほど賛否両論、喧々諤々の問題を含むものであると思いますので、多岐に渡らずもう少し深く神父様の神についてをお聞きしたかったなあと思いました。(T.S.)
------------------------ 2011年11月7日 14:37
今月の黙想を読ませて頂いて深く考えさせられました。
わたしたちの父なる神とは私一人の神ではなく、あらゆる人の父なる神なのだと。このごちゃごちゃの世の中に私達は生かされていることをあらためて考えさせられました。ではどのようにして生きればよいのでしょうか。なぜ私達の神はこの様な中に私達をおかれたのでしょうか。神がのぞんでおられたのは人をたがいに思いやり心を一つにして事に当たり、平和の世の中を作る事ではなかったのでしょうか。同じ父を持つ兄弟達がなぜ心を合わせる事ができないのでしょうか。黙想しながらいろいろの思いがありました。
この生きるに困難な中どうすればよいのでしょうか。生かされている事は悩みや苦しみが沢山あります。唯一の神イエスは十字架を背おって私に従いなさいと呼びかけて下さっています。共に歩かせて頂く事で何をのぞんでおられるのか、その事に近づくにはどうすればよいのか。そしてその事を通して気づかせて頂き、実行できないことに悩み祈り、その中で光を見ることが出来れば生かされている意味を自分のものとして受け取れるのではないかと気づかせて頂きました。私達の神は苦しみ悩むためにいろいろの兄弟をお造りになったのではないかと・・・。悩み苦しみ傷つく事によって頂く平安は本物ではないでしょうか。私は実行できない事に悩んでいる一人ですが、わたしたちの父なる神を信じ祈り傷つく事があってもあきらめず、本物の平安を頂くために歩み続けなければいけないと思いました。
大切な事を考え少しでも前に進むようテーマをくださったキッペス神父様に感謝いたします。
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