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「自分の価値」? 信じにくい! 10月の黙想

「自分の価値」? 信じにくい!


 最近、瞑想しながら次の聖書の箇所を読んだときに感じたこと。


 「 あなたがたは
  神に選ばれ、
   聖なる者とされ、
    愛されている」
*1


を読んだときに自問自答した。このことばを信じるだろうか。これらのことを意識しているだろうか。信じにくい!日常生活では意識していないし、味わってもいないし、誇りとしてつかんでもいない。却って自分がごく平凡で当たり前の(惨めな弱い)一人のイエスを信じている人間にすぎないと思っている。


 「価値観の明確化」のゼミナールでは、参加者に対して以下のことばを伝える。
 「あなたがたは、
  選ばれた民、
   王の系統を引く祭司、
    聖なる国民、
     神のものとなった民です。…
 あなたがたは、
  『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、
    憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」
*2

 わたしはそれらを意識しながら、誇りをもって生きていない平凡なカトリック信徒だと再認識した。

 「あなたがたは、
  自分が神の神殿であり、
   神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」
*3

という教訓は耳に入ってきてもあまり内面的な反応や刺激を感じていない。自分が選ばれた者だとはあまり意識なく、誇りとしても感じていないのは事実だ。


 日常生活でイエスとの関わりから生じてくる喜びは、現在住んでいる家の廊下に掛けられた木彫の「Jesus friend」をみたときである。内面的な支えや落ち着きを感じ取っているのは静けさの中、瞑想や当日の聖書の箇所を味わって読んでいるときだ。

hatena.gif
 自分が選ばれている人間であり、大切な存在だと意識するとよい…。そのためにはM・ブーバーがイスラエル人について言った以下のことばが助けになる。「おのおのの人間とともに、未だ存在しなかった新しいものが世界の中に置かれている。それは最初のもの、唯一のものだ。『自分のような性質の者は世界中でただ一人なのだ、ということを知り、かつ熟慮することは、イスラエルのすべての者の義務である。自分と等しいものは未だかつてこの世になかったのである。というのは、もしも自分と等しい者がすでにこの世にいたとするならば、自分はこの世にいる必要がないであろうから。各個人は、世界の中で一個の新しいものである。そして自分は自分の性質をこの世において完全にしなければならない。なぜなら、このことが行なわれないことは、メシアの到来を遅らせることだからである』と。(中略)ラビ・スッシャ(中略)は死の直前にこう言ったのである。『来世においては、人とはわたしに、『なぜ君はモーゼでなかったのか』と尋ねないだろう。『なぜ君はスッシャでなかったのか』と人はわたしに尋ねるだろう。」*4


 内面的な誇りや喜びの元になるようなことばから刺激を受けることは少ない。それに対して義務(付きの掟)や戒め、罪と罰のような単語から受ける影響は重く、生き方に暗い影響を与える/与えられたことはたびたび体験している。例えば、上述した「 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」の続きは、「のですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」と。*5 このような「・・・せねばならない」事柄は、長期間にわたって心や気性に重圧をかけられてしまうことも少なくない。(聖書の)誇りにすることばの色合いは暗く、生彩が感じられない。


 イエスとの関係をリニューアルする/させてもらうために、最近二つの体験をさせてもらった。一つは、「病人さんにとって『儀式』ではなく、まず真の人間関係が必要です」というわたしの活動を理解しない/できないために、わたしそのものを嫌っている方のことである。この方のことをふっと思い出したとき、「理解してくれないのは辛いですが、それを堪え忍ぶことによって自分の心が深くなり、言わば広がっていくのですから、感謝する」という気づきがあり、嫌な気持ちどころか、内面的な喜びを感じた。
もう一つは(20年前に時たましていたように)イエスに手紙を書くことであった。そのときは機内でノートパソコンを使い、イエスに会話形式で手紙を書いてみた。その結果、内面の状態は非常に静かになり、深い平穏、平安、安心を感じ続けた状態に恵まれた。


 ちなみに、ある方はイエスとの交際をロールプレーのような形で行っているという。それはイエスが自分の隣の椅子に座っているように、仕事をするときにはまずイエスと相談するという。わたしにはこうした会話式より紙に書いた方が明確になって、ごまかしがなく、援助になる。


 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」*6 というイエスのみことば。そして上述した誇りの元になるパウロによる「よいニュース(福音)」を、自分に役立つものにするにはどうすればよいのか工夫し、互いに助け合いたい。期待しています。


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1: コロサイの信徒への手紙3:12
2: ペトロの手紙 一 2:9-10
3: コリントの信徒への手紙3:16
4: M・ブーバー「祈りと教え - ハンディズムの道」理想社 1996、51-52頁
5: コロサイの信徒への手紙3:12b-13
6: ヨハネによる福音書3:16

日付: 2011年10月01日

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私の思い(6件)

これを書いている2011年10月6日という今日は二度と来ない、一回きりの日だと意識して生きていないと同様に、自分という人間は後にも先にもない唯一の存在だと意識して毎日を過ごしていることもない。そんなことをいつも意識して生きられますかといえばそれまでだが、神からいただいた命を真に自覚するなら、自分の人生はなんと壮大で、なんと尊いのかという思いにきっと変容していくのでしょう。  
憐れみ薄く、慈愛少なく、奢り高ぶり、不寛容に過ごしている毎日と決別できないものか!
と確かに「・・・・せねばならない」事柄は心に重圧をかけ続けている。                       (A.F)

Kippes(2011年10月06日 11:15)

今月の神父様の黙想を拝見させて頂き、率直に何か明るい祈りたい、生きたいと言う希望よりも、私たち一般信徒の方がキリストの約束を信じ、希望を持って生きようと努力しているようにさえ思えました。私が思うにこのくだりで「神に選ばれた」と言う箇所ですが、今私は乳児期、幼児期、青年期、そして熟年と言われるまで生かして頂き、70億人の中から、1億2000万人の中からごく少数のキリスト者の中に選ばれ呼んで頂き、「聖なるものにされ」も少なくとも洗礼によって原罪をお取り頂く機会を与えられ、祈る事を教えられ救われる事を約束され、日々置かれた場所で聖なるものに変えられていっていると思っています。「愛されている」は日々十分に涙が出るほど沢山、沢山味わわせて頂いている事は自分
が一番知っている事だと思っています。人に嫌われていると思っても、自分自身に嫌われないように注意したいと思います。
(T.S.)

Kippes(2011年10月11日 16:53)

「自分の価値」? 信じにくい!
 あなたがたは
 神に選ばれ
 聖なる者とされ
 愛されている

 今月のイエスの友はなかなか自分の中に入ってこなくて困っていました。その最中に三橋さんからメールを頂きました。
 ご自分が書かれたという色紙が送られてきたのです。この聖書のことばが書かれていました。それを見たとき、このことばが心にひびいて来ました。何時も活字で見なれている文字が、人が想いを込めて書かれたその文字から聖書のことばが伝わって来ました。とても新鮮なおどろきでした。やっと落ち着いて黙想することが出来ました。
 私はこの聖書のことばはあまり意識していませんでした。自分は聖なる者と言われてもそうではないという思いが強くありました。味わっていると私という人間は神が選んで下さって聖なるものにして頂いているのになんとゆう失礼なことを思っていたのかと反省し、感謝しました。
 どんな時でも愛して下さる神、それはなににもまさる幸せなこと、何度失敗しても、道を間違えてもまた立ち直るきっかけを下さって正しい道を歩かせて頂いているのは愛して下さっている神様からのプレゼントなのだと気づかせて頂きました。
 この聖書のことばから私は力を頂きました。
 御父・イエス・聖霊に感謝いたします。
キッペス神父様、三橋さんに感謝いたします。
(I.S)

Kippes(2011年10月19日 11:59)

「10月の黙想」有難うございます。読ませて頂きました。
カルメルの生き方、霊性は「神の現存を生きる」です。これはまさにキッペス神父様が何時もおしゃっていらしゃる「スピリチュアルな存在」であることと同じで、私の内でピッタリと一つになりました。そしてこの道を生涯歩もう、とこの生き方を誠実に神様の呼びかけに答えた時大きな喜びに満たされました。不思議です。
現実の生活の中でほんとうに聖霊の息吹を願いながらの日々です。
                            Y.T.

Kippes(2011年10月28日 11:27)

「 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている 」
 もう何年もこの御言葉を忘れていました。正直、自分がそうだなんて今は思えません。結婚して子供(高校生と大学生)がいるのですが、ある原因で妻子供と別居を 4 年くらい続けています。私自身普段は結婚していることすら忘れていますし、毎日一人で暮らしていると「もう別に人生の目的もないし、必要とする人もそれほどいないし、早く死にたい」と日々思ってしまいます。
 会社もこき使われて、疲れた体で帰宅しパソコンに向かって数時間すごし、寝るのです。そして又仕事。そのような中でこの御言葉は空虚な言葉にしか聞こえません。
 なにかやっていないとうつになりそうで、ボランティアに加わったりするのですが、疲れがひどくそれも最近はなおざりで、「もう疲れた」「早く死にたい」「なにもかも終われる」教会には時々行きますが、ミサが終わるとその日の過ごし方で悩むのです。目的もなくドライブし何か食べて帰ってくる。そんな時もあります。もう人とかかわることが面倒くさくなって、一人で過ごしてしまうのです。
 信者なんですが・・・それでも教会の会議にも出ますし、地区へも出向いたりします。そのときはいいのですがそれが終わっていつもの生活がまっているとおもうと、帰る足が重くなってしまうのです。今日の黙想を読んだらなんか吐き出したくなってこんな風に書いてしまいました。(M.Y.)

Kippes(2011年11月02日 14:13)

「あなたがたは 自分が神の神殿であり 神の雪が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」
という聖句は禅宗でいうところの「衆生本来仏也」に意味が近いと思いました。
禅宗では「直指人心見性成仏」(人の心をズバリ指して、自分の本来の姿をさとらせる)といいますが、人が本来持っている善を強調します。そのような禅宗の考え方が現在、ヨーロッパ、アメリカの心理を求める人々に大分受け入れられてきていると思います。
カトリック禅宗の相互理解が深まることを願います。(Y.F.)

Kippes(2011年11月02日 14:16)




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