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信仰 対 マニュアル 9月の黙想

信仰 対 マニュアル


 最近、本で読んだこと。ローマのある神学校では神学生と一緒に老いた一人の司祭が住んでいた。彼は耳が遠く、目はほとんど見えなかった。日々、長い時間をひとり聖堂で過ごしたが、それが瞑想なのか居眠りなのか、第三者には分からなかった。時たまひとりごとを言ったが、それは悟りの深いものだったか、それとも老衰のせいだったかわからない。ある日のミサ中のことである。聖書の朗読としてイエスの「…人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」*1 が読まれたとき、聖堂の後ろの方から、その老いた司祭が「たぶんない、たぶんない」と大きな声で応答した。神学生は笑い出すのをこらえたが、そのとき一人の司祭は悲しくなり、「イエスは最後の日、地上に来られるとき教会を見つけても、信仰を見つけなかったら? 詳しく研究されている神学を見つけても、信仰を見つけなかったら? 内面的(スピリチュアル)な生き方を目指す多くの教育機関を見つけても、信仰を見つけなかったらどうであろう。イエスの気持ちはそのときどうであろうか」と自問自答した。*2


 信仰や信仰生活は単なる習慣あるいは研究などではなく、イエスへの信頼に基づくライフスタイルだ。イエスはこの世で成功する、納得できる、まねしたいような幸福な人生を送られなかった。ご自分に従いたい人にも約束していない。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」*3 とイエスは言っている。いわばイエスに従うなら楽な生活、マニュアルとおりの問題のない生活、周囲に高く評価してもらえるような生き方は約束されていない。むしろ、いやがられ、変人と言われるような、社会の調和を乱す者として見られるかもしれない。

 
 正月は神社、お盆はお寺参り、クリスマスは教会へ行くことが一般の人々のライフスタイルである。その中で、イエスが要求する信仰生活は周囲に理解されにくいだろう。言い換えれば習慣的な行事やイベントではなく、日々の苦労(=十字架)と結ばれているものだからである。(注意:信仰による個性と思っているくせによって周囲に避けられること(変人)は信仰と異なっていることを意識するとよい。)

 
 私事だが、一般社会で内面性(心・霊・魂)の育成が人生の最期まで大切であることを訴えても理解してもらえることは少ない。教会関係の医療施設は心・霊・魂のケアは単なる宗教的な儀式だけでなく、特に重い病気のときにこそ的確な心・霊・魂のケアが必要であることを理解されないのも既に35年間ほどになる。今年の7月、再びその訴えを断られた体験をした。その後、こうした困難に対して悟らせてもらったことがある。それは長年断わられている病院の看板をみたときのことである。相手はわたしのその訴えの内容を理解できないことを私が認め、その人に対する嫌な気持ちや考えを持たないように努めるとよいこと。それは無駄な忍耐や逃げ道ではなく、辛いものだが、心を深める要素となる。心の良さとその深さは研究によるものではなく、実際の苦労(=十字架)によってしか得られないものだからである。私事だが、40年前に「I refuse to hate わたしは憎むことを拒む」を自己の心の方針として持ち続け、助けられたのである。上述した“看板”のきっかけで、そのモットーを思い出し、心が癒される(平穏になる)方法を得た。

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 目、いわば感覚で確認できないような苦労の報いを高く評価することは難しい。だがそれに対してパウロのことばはヒントを与えてくれる。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。…ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」*4 このことばは耳が痛くなるほど聞いたことがあるが、生活において生きているかどうかは別な問題であろう。

 
 内面的なトラブルや誘惑との闘いに関して、必ず成功する手段や生活の方法など、いわば絶対的なものはない。問題や誘惑に負けてもイエスを信じて従おうとするほかはない。学んだ宗教教育(例:告白すればすべては元の通りになること)や習慣によって簡単には問題を取り除けない。心身共の欠点、問題、罪など、いわば十字架を寿命の尽きるときまで意味のあるものとしてイエスを信じるのは信仰であろう。もしかすると、自分の属する共同体や友人が理想的でない自分を相手にしなくても、イエスはどんなことがあっても自分(わたしとあなた)を相手にしてくれることを信じ続けるのは、マニュアル通りではない信頼に基づくイエスとの関係によるものである。言い換えれば十字架=イエスへの信仰であろう。こうした信仰生活は、新しい存在=復活の基盤になる。新しい命/生き方は十字架(苦労や死)の実りだからである。
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1: ルカによる福音書18:8b
2: Tomas Halik 「Geduld mit Gott」Herder 2011、P.243
3: マタイによる福音書16:24b
4: コリントの信徒への手紙一1:18,22,23-25

日付: 2011年08月31日

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私の思い(3件)

 日々の苦労(=十字架)と結ばれているものだからである.
 十字架を寿命の尽きるときまで意味のあるものとしてイエスを信じるのは信仰であろう。生き方は十字架(苦労や死)の実りだからである
 十字架=イエスへの信仰
 生き方は十字架(苦労や死)の実りだからである.

 今月の黙想は、十字架(苦労や死)の言葉が心に残りました。
 先週、23年程親交のあった友が旅立たれました。戦後間もないころ、24才の若き日にベタニアで受洗されて60年余り、片肺の身で、自分の才覚を充分に開花し、しかし、ご自分のためには全く計算のできない愚かで尊い生き様と信仰を見せていただきました。エマオへの道で、あの時もこの時も共に歩ませていただいたことに感謝です。上半身を撮影した遺影を拝見しますと、苦しみに負けずに生き切った誇らしい顔が微笑んでいます。後に続くものとしてとても励まされました。

Kippes(2011年09月01日 12:33)

「心の良さとその深さは実際の苦労(=十字架)によってしか得られない」という言葉に立ち止りました。
困難にもかかわらず人生を良く歩んでいると思える方は、人間としての落ち着きや深みがあり、かならず「主に導かれている。」とおっしゃいます。
自分はそういう方達、また2000年もの間イエスを信じ、慕ってきた先人たちの信仰ゆえに、イエスを信じられているのだろうか?と
思った時もありました。
でも今は直接神から、自分の十字架を引き受けて誠実に、希望を持って歩むことを私の人生に託されていると信じられます。
イエスから「私を愛しているか?」と問われています。(A.F)

Kippes(2011年09月04日 14:25)

 「わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」 マタイ16-24
 十字架(苦労や死)とむすばれている
 十字架(苦労や死)によってしか得られない
 十字架 イエスへの信仰
 十字架(苦労や死)の実り
 この聖書のことばは信仰のすべてを表しているのではないかとあらためて感じさせて頂きました。イエスについて来たい人は自分の我欲を捨て、苦労を背負ってイエスに従いなさいということです。何度もこのことばを黙想させて頂いているうちに次第に自分の中にはいってきました。このことばは何度も聞いているのですが、ほんとうはよくわかっていなかったのではないかと感じたからです。苦労を背負って従っているのですが、イエスが歩かれるきびしくけわしい道の事を考えれば、自分が背負っているものはまだまだ自分に耐えられるものであり、共に歩かせて頂いているのだから安心感(信頼)があります。自分の苦労を越えることが出来ればやすらぎ(平安)を頂けるからです。自分のわがままや自分の欲望を達成させても、このやすらぎ(平安)は頂けないと思うのです。
 従っている方は信頼できる方ですが、目には見えない方ですが、心はつながっているのです。信仰は建前ではなく、自分自身のなかにイエスを信頼して苦しい道でもついて歩いて行くことではないか、とあらためて感じさせて頂きました。
 一人の司祭が自問自答されたことも考えさせられました。自分の信仰は、と考えるとキッペス神父様が電話で祈る会を始めてくださって、信仰の土台をしっかりとしたものにして下さっていますし、信頼を深めてくださいました。これからは自分自身がゆるぎないイエスに対する信頼を深め、イエスに従って最後まで歩き続けることが出来ますよう願い、祈りながら歩き続けたいと思っています。 感じさせて頂いたこと感謝いたします。(I.S.)

Kippes(2011年09月16日 10:22)




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