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「敵」 対 「敵意」  7月の黙想

 「敵」を殺すのではなく「敵意」を殺す。「敵」を殺しても自分の心の中の「敵意」を殺さない限り平安や平穏はない。人生の極限の闘いは自分自身の中に内在している「敵意」を無くすことである。
 
 人間は「共に生きる」はずだが、人間の歴史は「人間が共に生きられない」ことを証明してくれる。このように人間が存在してからの悲劇の起因とは? それは「他者がいる」という事実だけで自分の存在の脅威として知覚しているからである。この脅威は安心して生活できず、落ち着くことがなく、人生を安心して送れない妨げとして多くの歴史は語っている。他者が生きる助けではなく、却って不安のもととして知覚する内面的な(=心の)衝動を駆り立てているのは「敵意」、いわば「悪・悪意」の一つではないだろうか。挨拶しないこと、無視すること、DVや苛め、縁を切ること(無縁社会)、東北の震災への無関心、殺害やネットのテロ*1 、革命や内戦、(宗教戦争を含む)戦争、宗教への迫害や集団虐殺*2 、民族の絶減(迫害/殺戮)などは他者(人間同士)から生じてくる不安の結果であろう。人間は人間の敵である。ローマのある劇作者プラウトゥスは人間を「homo hominis lupus est 人は人にとって狼である」と定義したようである。*3illust_162.gif
 
 同じ人間を滅ぼそうとする思考の力は極めて大きい。「敵意」はすべてではないがそのパワーは殺人と同等であろう。自分の人生の生き方に合っていない人や自分の存在にマイナスの影響を与える可能性のある同じ人間を亡くさない限り落ち着かないような、内面的に不安定な状況が起因であろう。だが他者、人を殺しても、自分の中に内在している「敵意」を抑えて活動させない限り安心して生活は送られない。「敵意」の存在そのものが問題だからである。
 
 「敵意」とは相手との関係を否定するだけでなく、相手の生きる自由や存在そのものも滅ぼすほど相手に害を加える行為である。「敵意」は敵対する心でもある。「敵意」の反対語は単なる「友人間の情愛」といったものでなく、「血族関係」や「親戚関係」でもなく、意識して生きる「絆」である。他者は自分の「仲間」なのである。
 
 「敵意」は自分の心に存在し活動している悪、としてまず意識する必要がある。「敵意」は自分自身との(生涯における)闘いである。ドイツの有名なサッカープレーヤーであり指導者F・ベッケンバウアーが45歳に言ったことばは印象に残っている。「自分の中に敵がいるとすれば、そういう自分自身に対して負けてしまったなら、サッカーの優勝数(大勝利)の益もいったい何になろうか」と言っている。*4 イエスの言葉を思い出す。「人は、たとえ世界ぜんぶを味方にひき入れても、自分自身をだめにしてしまったら、何の意味があろうか。人には、自分自身の代わる値打ちのものが、何かあるのか。」*5
 
 1997年の「神戸少年事件」で10歳の娘 彩花さんを失った母親の山下京子さんの事を思い出す。山下さんは事件の半年後、夜、自宅への道を歩いていたときに、だれかに呼び止められた気がした。振り返ったときに見た月に、幸せそうに微笑んでいる娘の顔が感じられ、彩花さんの声が自分の心に届いたような気がした。「お母さん。もう悲しまなくても、憎まなくても、ええのよ」と。こうした体験によって加害者の少年に対しての気持ちにも変化が出てきた。「絶対に許せないという怒りは持っていますが、憎しみの度合いが減り、反対に、何としても人間として蘇生してもらいたいと思うようになった」と言う。山下さんは「自分が変わればすべては変わる」という結論に達した。*6
 
 生きることは「弱肉強食」の本能、いわば盲目的な運命に従うことではない。人生は闘いであり、まず自分自身との日々の闘いである。その絶え間ない闘いを援助し、励ましてくれる仲間が欲しい。「人間であるから」「仕方がない」「どうせだめだ」「もう歳だ」「人間は変わらない」などのマイナス思考を演じるような仲間ではなく、「自分が変わればすべては変わる」のように共鳴してくれる同僚、コンパニオンが欲しい。「やってみよう」「転んでも再び立ち上がる」「敵対心より連帯感」のような生きた応援が。イエスはその一人である。「あなたたちは世にいるあいだ苦難を受ける。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝利しているのだ。」*7 この勝利は敵を殺すような意味ではなく、「敵意」そのものを殺した。それは御父に対する従順に因る闘いの結果であった。パウロが言っている。「(イエスは)十字架によって敵意を(自分自身の中で)滅ぼされました。」*8
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1: 6月中、1日で100通あまりの迷惑e-mailが継続的にjesus-online.jpに入ってきたことがあった。
2: ある人種・国民などに対する計画的な大量虐殺
3: (Titus Maccius Plautus, c254 BC - 184 BC) の言葉。読んで字の如く、他人はおそろしいものだということを表現している。
4: F・ベッケンバウアーは1974年度のワードカップの選手として、1990年度のワードカップでは監督として優勝した人物である
5: マタイによる福音書16:26 (小さくされた人々のための福音より)
6: 山下京子著「あなたがいてくれるから」河出書房新社、1998年、74-75頁参考
7: ヨハネによる福音書16:33b (小さくされた人々のための福音より)
8: エフェソの信徒への手紙2:16b

日付: 2011年06月29日

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私の思い(2件)

ヨハネ福音書16~33
「あなたたちは世にいるあいだ苦難を受ける。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝利しているのだ」
7月の黙想「共に生きるには」と考えさせられました。敵意を押さえるには自分を変えるしかないと思います。自分を変えると言っても自分の気持ちの持ち方を変えるのです。自分を変える事はむつかしい事ではありますが、相手を変える事はもっと難しく、できないと思います。自分を変える事は自分の心の中をみつめなおしてみると自分しかできない事が分かります。自分の中の悪意を変えるのです。自分が変えたいと努力をすればかならずイエススが助けて下さるのです。そして、自分が変わって相手を見ると相手の事がよく見えてきます。なぜそうするのか、また、相手の好いところも足りないところもそれが少しでもわかれば許す気持ちが湧いてきます。それは感謝です。それは自分だけではできないと思います。大いなる力が働いて出来ることだと思います。そんな経験が出来たのも黙想会でキッペス神父様の講義のなかにあったことでした。聖書の言葉のなかにありますように、勇気を出しなさい、この言葉が実感です。そのあとは心に平安を頂けるのです。それから先は山下さんのおっしゃるように、すべては変わるのです。私は山下さんのようなたいへんな経験をした事はありませんし、小さな社会のなかで生活していますから大きな事は言えませんが、「自分が変わればすべて変わる」と言う事に小さな経験をしたものとして共鳴します。聖書の言葉を信じ勇気を出して少しでも変えることができれば敵意の質が変わってくるのではと思います。共に仲間として生きるには勇気を出して一歩踏み出すことではないでしょうか。
大切なことを考えさせて頂いて感謝いたします。

2011.7.7 I.S.

I.S.(2011年07月12日 11:13)

自分の中にある悪のひとつ、敵意について考えさせられました。
今月は自分の中にも「敵意」というものがあることを意識させられる黙想に出会ったという感じです。常日頃、仕事上私の理解を超える行動をして、私に一種の危害を与える人や、自分のやり方を無理矢理押し付けてくる人に、反発を覚えることがあります。なぜ、あの人はそんなに私を操作しようとするのか?苦痛を覚えるときもあります。
これも、敵意の一種ではないかしら?と考えました。
自分自身をダメにしてしまう事とは?・・・私たちは生きている間に多くの苦難が待ち受ける。苦難のない人生はない。しかしその苦難に負けてしまう自分と、負けないで戦い続ける自分と、どちらがなりたい自分か?
イエスが十字架によって敵意を滅ぼされたように、私も自分の中にある自分をダメにする「敵意」を打ち消したいと望みます。サッカーの「なでしこジャパン」からも<あきらめない>戦い方を見習って学びたいです。あきらめずに、少しづつでも前に進んで行きたいです。人生に優勝戦があるわけではないと思いますが、すでに世に勝っているイエスと共に励ましあう仲間が私も欲しいです。
(K.T.)
2011.07.22

w.キッペス(2011年07月22日 14:07)




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