毎月の黙想
心にあるイエスのスペース 6月の黙想
私事だが、日常わたしの使う好きなコップには「Jesus remember me when you come into your kingdom イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」*1 と書かれている。そのことばを英語で歌うのは大好きである。ちなみにその句の「著作権」はどこかの立派な“聖人”ではなく、犯罪人として十字架にかけられた方のものであることに考えさせられる。
この句=賛美歌を繰り替えし歌いながら、「イエスの御国」は「問題のない平穏な中で、尊敬し合いながら共に生きられる場所というよりは状況」として想像している。ところが最近、気が付いたこと、ひらめきがあった。イエスがわたしに向かって「ワルデマール、あなたの御国でわたしを思い出してください」と言われたなら…。わたし・キッペスの御国とは?それはわたしの毎日の生活だ。わたしの考えや優先課題、仕事、趣味、好みなど。こうした事柄の中に果たしてイエスの「場」、あいている所、いわばスペースがあるだろうか。自分の思考や希望の中でのイエスのウェートとは。
白柳誠一枢機卿のことを思い出す。枢機卿がこの世から旅立つ10日ほど前、病室で付き合わせてもらったときのこと。「ペトロはイエスに二回戻りました。…イエスから絶対離れてはいけません」と、二回も繰り返し枢機卿が言われたことは記憶に残っている。枢機卿は43年もの長い間司教であったので、イエスの代理者であるペトロのことばが特にインパクトの強い教訓であったことを推測できる。
「ペトロはイエスに二回戻りました。…イエスから絶対離れてはいけません」と言うことはペトロ自身の手紙から直接に学べる。即ち、「心の中でキリストを主とあがめなさい。」*2 生活ではなく自己の存在の中心である心に、「イエスをあがめる場」を置きなさい。イエスをついでに考えるのではなく、尊ぶという意味であろう。
ところで自己の現実はどうであろうか。イエスが自分の生活、自分の心の中でどういう位置をもっているかは個々人が正直に反省する課題である。私事だが、日常の過程は大体決まっているので身の回りのことや掃除、務めなどではイエスを意識していないのは普通であろうが、時間の余裕があるときには問題になりそうだ。特にフリータイムの使い方は課題である。インターネット、Eメール 対 瞑想、祈る時間。進んで人と付き合うこと 対 イエスとの付き合いの選択など。イエスに自分の生活の支配権をゆずるのは当たり前ではない。特に良心からの責めを感じるときにはそうである。自分が信じる、信じてきたイエスは自分を自由にさせるのか、それとも縛られるのかが明らかになる。わたしが家族から受けた宗教教育は親のその当時の教理に基づいたものであった。善悪はすでに決まり切った事柄であったので、討論する余地もなかった。そのかわりにごく自然なものがタブーとして日常の生活の重みになった(例:身体への考え方や感じ方、他宗教、ニヒリスト的な哲学や無神論者の考え、フロイトの精神分析や心理学、ダーウィンの進化論など)。こうしたタブーをイエスの声だと信じてきたことは、イエスからの自由どころかイエスによる鎖のように体験してきた。こうした「人間made(人間による)」コルセットから解放されるには一生かかるだろう。
イエスは“縛る主”ではなく、自由にさせる主である。イエスは2千年前の熱心なユダヤ人に対して、「人間による」信仰生活から「神のみ心による」信仰生活へと強く促したのである。イエスのことば
-「わたしが来たのは、羊(あなたがた)が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」*3
-「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者(あなたがた)は、死んでも生きる」*4
-「わたしは道であり、真理であり、命である」*5
ヨハネによる福音書の最後に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と。*6
イエスが自分を自由にさせてくれる方であるか、それとも縛られる方であるかは個々人の日々の反省、決定する課題であろう。イエスは「あなたの心(国 kingdom)に戻ってきたとき、わたし(イエス)のことを時たま思い出してください。よろしく」と。そしてペトロの願いすなわち「抱いている希望(イエス)について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。よろしく」を自他に勧めたい。
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1: ルカによる福音書23:42
2: ペトロの手紙 一 3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
3: ヨハネによる福音書 10:10
4: ヨハネによる福音書11:25
5: ヨハネによる福音書14:6
6: ヨハネによる福音書20:31
私の思い(4件)
人間に与えられた一番大きな恵みは自由意志があることであり、それを自由に使う事であるとは何時も聞いている事では有りますが、自分の弱さを見る時には自分の自由意志によって神に束縛される事を願い、そうしたらどんなに楽かと思ったりもしていました。でもある時から折角下さった自由意志を使って神を愛する事が神の最も喜ぶ事である事を悟り、弱さを認めつつ、その中に生きつつ、日々を送っております。この事を字で書く事は簡単でも、生きる事の難しさを最近体験しています。それはパソコンを開き面白いゲームに費やす時間を絶っている事です。それを神様の為の時間に出来たら良いなあと希望し、自由意志で気付いた事を大切にしたいと思っている所です。
こころにあるイエスのスペース・・・と言われてピンと来なかったが、人格者である素晴らしい盲人の方の記事を読んでいて
腑に落ちた。この方は全盲なので、半日外出すると見知らぬ人々が助けてくれるという。その方が感謝とは、「喜んで世話になる」その喜びの表現と語っている。私もそうでありたい!
「神に感謝」といいながら、具体的に援助してもらったこと、
支えてもらったこと、祈ってもらったこと、ともにいてくださったこと・・・を喜び表わしているだろうか。そこにこそイエスがおられる。
寸時でもイエスから離れたと時は、人間の業ともいうべき思いや想像の闇に引き込まれてしまうことは日々体験しています。
それは絶えずイエスのことをリアルに思っているなんていう高尚なことでは決してありませんが、寸時でもイエスに自分が心を向けた時はいつも自由をいただけるからです。
発展途上人の自分にとっては、イエスがもっともっとこれからも私を困難な歩みの中で自由にしてくださると信じられますので、あまりイエスが自分を縛ると考えたことはありません。
これはまだ本当の苦しみや信仰に至っていないのかな?
自分の心を占めるものは自由や充足を与えてくれるものか、それとも不自由や規定を負わせるものかと考えた時、信仰する宗教を持たない私にとってはその時々の状況・状態によって変化する。私の心を占める主なものは自身の考えや感情、理性、そして大切な人の考えや感情などである。私にとって「大切な人の考え・存在」は信仰を持つ人にとってはイエスが語ったこと・イエスの存在と言い換えられるかも知れない・・大切な存在が必ずしも自由や充足を与えてくれるものではないが、自由とは、不自由とは、自分が求めているものとは、自分にとって必要でないものとは・・などを問うてくれるものであることは間違いない。答える(応える)ことも大事であるが、まず問われることに感謝したい。
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