毎月の黙想
自己の改善 5月の黙想
| 自己の改善? |
- 殺害を喜ぶことと自己の心の改善 -
今月のはじめ、ゴールデンウィークの最中にビンラディン容疑者殺害のニュースがマスコミの中心課題となった。アメリカ合衆国は大喜びで、オバマ大統領は「正義が果たされたjustice has been done」と評価した。ヨーロッパでも喜びの声が上がった。ドイツのメルケル首相はビンラディン容疑者殺害を成功したと評価して喜びを表現したという。その結果、ドイツでは非常に反論があった。「殺害について喜ぶのか」という根本的な討論が起こった。現在、ドイツでは宗教(教会)離れでキリスト教人口が大分減少した事実にも関わらず、聖書の「十戒」が西洋に与えている影響は重大である。その十戒の中の第5戒「殺してはならない」*1 が討論の元になった。「(メルケル首相は)牧師の娘でありながら第5戒についての授業をサボったのだろうか」という強い批評まで出た。その後のアンケートによると、ビンラディン殺害を喜ぶ理由として認めるドイツ人は28%、64%はそれを否定しているという。
敵(人間相手)を殺したことが世界の平和的な実情、個人の平穏な日々や内面的な平安になるのだろうか。1995年5月、わたしがロンドンに滞在した時*2 の出来事を思い出す。そのときちょうど第2次世界大戦終了の50周年記念祭が盛大に行われた。平和になったこと、敵同士の殺戮の終了を祝うのは良いことである。だが軍事力によって敵に勝ち、いわば敵を殺したことを祝うのはどうかと思った。というのは戦勝式典では戦争に使った戦闘機が盛大に飛行したパレードのことが記憶に残っている。ドイツ人のわたしはこうした戦闘機の騒音だけで13~14歳のとき神経症になった。爆撃によって一回はアパートの二部屋、2回目は建物全体を破壊されて8人の家族は3年間避難生活を送ることになった。

ロンドンではもう一つのことが印象に残っている。それは戦勝記念碑が多く、イギリスは平和を愛する国民だろうかと考えさせられた。記念碑の中には「じゅうたん爆撃」の中心人物であった「爆撃手ハリス Bomber Harris」あるいは「虐殺者ハリス Butcher Harris」と名付けられた隊長の記念像が特に記憶に残っている。(写真) わたしの家族の不幸はこの隊長のアイディアによるものだったからである。*3
ロンドンに続いてフランスの「癒しの町ルルド」に行った。このとき、ある礼拝の初めに行われたフランスの退役軍人の行列は印象に残った。彼らは誇りを持って兵士の帽子をかぶり、ユニフォーム(胸)に勲章をいっぱい付けていた。勲章とはよく敵と戦って、おそらく敵(ドイツ人?)を撃ち殺したことも含まれるのではないかと深く考えさせられた。
ちなみにロンドンやルルドに行った目的はホスピスや病院での心と魂の癒しを含む全人的ケアの現場を体験するものであった。だが両国の都市で、“人間は殺すことをそんなにいやではない”ことを学んだ。
日本ではどうであろうか。ビンラディン容疑者殺害を含めた「人を殺すのは悪事だ」の善悪を問う前に、日常生活の現実を意識するのが近道であろう。日本の戦争の歴史は別として、日々直接ではなくとも、社会制度やそのありさまによって生きることを阻害され次第に殺されていく者たち。例えば復讐やDV(家庭内虐待)、虐待やいじめ、日常生活で無視され軽蔑された弱者、放置される高齢者、離婚や妊娠中絶、自死した人や堕胎、過労死による犠牲者などである。自分や他者を殺す方法や原因は様々である。ちなみに死刑制度に賛成する国民のパーセンテージは「場合によってはやむを得ない」85.6%、「どんな場合でも廃止すべき」5.7%である。*4
冷淡な感情、
「殺してはならない」について論じるには、自分にとっての「善悪」を明確にするとよい。わたしは「善」と「悪」を次のように定義する。
「『善』とは:すべての生き物が共に生きることを可能にし、それを援助すること
『悪』とは:生きることを妨げ、それを不可能にすること」
である 。*5 従ってわたしにとっては人を殺すのは「悪」である。悪人と言われた人を殺しても、人間は心のより善いものになることは考えにくい。自分も含む人間は、自分の中に存在する悪が一人ひとりへ一生の闘いを要求し、命の創造主の存在の助けがないかぎり最期までも悪に勝ち得ることはおそらくないからである。ビンラディン容疑者を殺害したことによってビンラディンの心、彼を殺害した兵士や彼の殺害によって解放され喜んだ人々、そして読者などは「心のより善い人」になったのだろうか。わたしはそうではない。
最近のこと。3月11日の影響による関東地域の公共交通機関の節電状況を体験した。車内の電光掲示板には地震による影響の状況が絶えず流れていた。わたしはホームのエスカレーターの停止によって重い荷物を運ぶ困難さを肌で感じた。確かに不便だ。だが東京に住む一人の知人は、自発的に1ヶ月以上も一人の避難者に自宅を提供し、自分の営業所のライトを半分に節電し、それを今後も続けると伝えてくれたことはわたしにとって光のようであった。その知人は直接地震によって害を受けなかったし、キリスト者でもない。その二日後、司祭の集まりに同席した。そのとき、ある一人はその場に入るとすぐ冷房を入れた。そのことに驚いたわたしは「東北の震災のことを考えれば、冷房は必要ないでしょう」と言ってみたが彼に非常に攻撃され、冷房は止めてもらえなかった。今の日本の状況には連帯感もなく、心が悪く(鈍く)なったのではと感じていた。キリスト教とは何だろうか。「善」は生かすことであり、全てが生きられることを可能にするための協力や努力のことであると思いたい。
ビンラディンの殺害は別として、3月11日に大勢の人々は海に沈められた。生き残っているわたしたちは無関心や連帯感をなくして自己中心に沈められないように努めたい。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」*6
ミサごとにイエスの死を思い出すのも、殺す/殺されることを考えさせてくれる。パウロは勧めている。「…あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」*7 イエスの死の記念をわたしたちの心のリニュアールになるように。
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1: 申命記5:17、出エジプト記20:13
2: 1995年度の心と魂のケアとホスピス研修旅行
3: Harris隊長の記念碑の除幕式はイギリスエリザベス女王によって行われた。
4: 内閣府発表「基本的法制度に関する世論調査」より 2009年11月~12月、全国の成人3千人に面接で調査実施。64.8%(1944人)から回答。
5: ウァルデマール・キッペス「スピリチュアルな痛み」2009年 21頁
6: エゼキエル書18:23
7: 一コリントの信徒への手紙11:26
私の思い(5件)
私は仕事上動物の安楽死の場面に遭遇することがあります。
安楽死の理由は病気(苦痛)からの解放だけでなく行動上の問題(多くは攻撃性)を理由に飼い主である人間が決断することもあります。危害を加える攻撃性は「悪」です。殺すことで一時的に「悪」を消しても、多くの場合この飼い主はまた同じ攻撃性を持った犬を育てて(作って)しまいます。悪があると思ったところ(犬)にではなく、悪を消したつもりの人間のほうに悪があるからです。この場合の悪は劣悪な環境・無知・無理解などです。そのことに気がつかない場合、残念ながら同じことが繰り返されます。「悪」を考える場合、「個」ではなく「全体」を見なければ本当の改善にはならないと思います。「個」であるビンラディンに悪が無いとは言いません。ただ「全体」である社会またはそれぞれの人間の中に潜む無自覚の「悪」を見つめる必要も感じます。 I.M.
今月の、神父様のお書きになられている事は、その内容からはとても奇麗事の理想的な結果ではないかと思えました。その理由は、私達日本にいる人々はビンラディンの怖さも恐ろしさも体験していませんし、今後にも直接被害も無いでしょうし、その恐ろしい計画の実行の標的にはならないでしょうからです。もし近くにそんな人が住んでいたり、武装した兵士が町を歩いていたらどんなに怖いことでしょうか? 何とかして安心した平和が欲しいと思うでしょう。だから殺しても良いと言うことではありませんが、こんな思いの中で私が一つ言えることは、祈れることは「神よ 私の若いときの罪に心を留めず、慈しみ深く私を省みて下さい」そしてまた、「彼らはその為す所を知らざるによりて許して下さい」と言う祈りを唱えたいと言うことです。 S.T.
人間の考える正義の行為と思考を超えて、根源的な人間の命の尊重に神の正義を置くことは当然であり、また当然であるべきと思うことにキリスト信者である私は納得しつつも、全く曇りなくそれ善しとは考えられない自分があります。
神から見た悪の行為に人間がそのリーダーシップを発揮した場合の結果は、決して人間の真の幸せには繋がらないことは旧約聖書からも学んでいますし、自分の体験からも学んでいます。
でも神の正義にも人間の正義にもよく戸惑うのです。
従容として受け入れられる死があるのならそれは別として、銃を突きつけられるのは怖いし、又目の前で人が殺されるのも恐怖です。
命が脅かされるのはとても怖いというのが善悪を考える以前の私の本当の心ですが、それも善悪の判断の一つの元であるようにも思えます。 A.F
今月の黙想を読んで「殺害について喜ぶのか」と声をあげたドイツ国民に先ず尊敬の念を覚えました。独裁者の死や凶悪犯罪者の死刑をニュースで知った時、私の中に喜びの感情はなくて理性が押さえていたのだと思います。かといって抗議する程の怒りもありませんでした。自分が当事者でないから冷静にいられるんだろうか。ビンラディン容疑者ではなく、北朝鮮の指導者ならかすかな喜びを感じるのではないか。「悪」から離れられない自分を自覚しました。映画「神々と男たち」を観ました。15年前、アルジェリアでトラピスト修道会の院長が自分はやがてイスラム教徒達のテロの標的になるだろうと知って残した短い遺書がありました。その中に「その意味も知らず私を殺す人にも感謝と別れを捧げる。なぜなら、私はあなたの中にも神の顔を見るからだ。」そして「アーメン、インシャラー」で締めくくられていました。『「一人一人の中にキリストがいる」そう思わせてください。』と祈りたいです。A.A
私がビンラディン容疑者殺害の報を聞いてまず思ったことは
ビンラディン容疑者を殺したってモグラ叩きのように雨後のタケノコのようにテロリストはどんどん出てくるのに・・・と。
あまりにも無邪気に喜ぶオバマ大統領やアメリカ国民の姿には白けました。しかし、「殺害について喜ぶのか」と声をあげる程、熱くはない自分。先日、「死刑について考える哲学」という講義を受け、死刑について思い巡らす時をもらいました。
死刑にされた人、イエス・キリスト、ソクラテスのような無実であっても死を受け入れた人々がいます。私もいつその時が訪れるのかわからない人間です。
永山則夫という死刑囚がいました。極貧の中、成長し犯罪を犯しました。小学校、中学校も満足に通えなかった彼は独房で血の滲むような読書、勉強をして膨大な書物を残しました。沢山の人に手紙の返事を書き、悩む人々の相談に乗りました。結婚もし、生涯を罪の償いに捧げる中、ある日突然、少年事件の多発する中(見せしめの為)刑が執行されました。きれい事であってもどんな人でも殺すことは悪だと強く思いました。 M.R.
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