毎月の黙想
「どうして」 「何のために」 「なぜ自分ではないか」 4月の黙想
「どうして」 「何のために」 「なぜ自分ではないか」
3月11日午後2時45分。東北地方太平洋沖地震マグニチュード9.0は歴史的な強さだった。
わたしは九州にいて影響を受けなかったが、東北地方の知り合いの人とのコンタクトはほとんど取れなかった。インターネットの情報から大勢の人々が犠牲になったことがわかった。なお不公平な出来事ではないか!「なぜ自分ではないか!」。
<両親の名前を書いたカードを持ち、避難所を探す少年
--- 朝日新聞3月16日付>→
11日付けのカトリックのミサ典礼*1 (儀式のことば)のはじめは「神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、わたしの助けとなってください」*2 であった。地震に出遭い犠牲になった人々のこうした願いは聞き入れられなかったのだろうか。翌日のミサ典礼のはじめは「神よ、いつくしみ深くわたしに応え、あわれみ深くわたしを顧みてください」*3 。さらに二日後のミサ典礼は「呼び求める者にわたしは答え、悩みの時、ともにいて、救いと誉れを与えよう。長生きさせて喜ばせ、救いを豊に与えよう」*4 と。当日のミサの典礼のことばを読むか唱えたか、それとも歌ったかは別として地震に遭遇し、助けられた人と犠牲になった人々の中には、地震や津波の起因がどこにあるのかを考えざるを得ないだろう。人間の支配権に入っていないことは事実であろう。同時に聖書を信じ、それを生活の基盤とする人にとって、大地震や津波のような大災害(大きな不幸や不運,災難)をどのように取り扱うかは重大な信仰の課題である。
旧約聖書のはじめに「神はお造りになったすべてのものを御覧なった。みよ、それは極めて良かった」がある。*5 「極めて良かった」というのは? 神の「極めて良かった」の意味とその理解とは? 今度の大地震や津波による破壊と被災を考えれば「問題のない」「秩序のある」「見通しのよい状況」だけではなく、「苦労」「絶望」「破壊」「喪失」「ゼロからの、無からの再スタート、やり直し」をも含むに違いないと、言わざるを得ないのではないか。大自然の変化は人間の存在以前からあった。だから人間の過失・罪の結果ではないと言えよう。
ミサの入祭(はじめ)で歌う歌は人生の毎日の出来事に関係のあるものである。好むと好まざるに関わらず、毎日に豊かな意味を与えるものにするためには、それらを歌い唱えるとき、現在の生きている状況を意識する必要がある。でなければ単に意味のない、日常生活に関係のない、ことばだけのものになってしまう恐れがあるからだ。
従って、
「神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、わたしの助けとなってください」
「神よ、いつくしみ深くわたしに応え、あわれみ深くわたしを顧みてください」
「呼び求める者にわたしは答え、悩みの時、ともにいて、救いと誉れを与えよう。長生きさせて喜ばせ、救いを豊に与えよう」
のことばは、この大地震と津波による大災害にどういう意味、どういう重みを生じさせるものだろうか。あくまでもわたしの解釈であるが、聖書の神を信じる人は自分の理解や答えをそこに見つけざるを得ないのである。
「いつくしみ深い神」とはどういうふうに答えただろうか。悩みの時=津波にのまれた瞬間に「ともにいて、救いと誉れを与えた」かどうかはご本人でなければわからないが、「長生きさせて喜ばせ、救いを豊に与え」られなかったのではないだろうか。やはり、わたし(たち)の「あわれみ」「救い」「長生き」などの理解・解釈は、おそらく聖書(神)の理解とは大きく異なっているだろう。そこには破壊・壊滅や死の中にもあわれみ、救いや長生きも含まれているようである。理解しにくいことに関して、わたしはきれい事を言うつもりはない。だがこの巨大地震と津波の翌日、一つの強い印象的なできことがあった。
「イエスは助けてくれますか」
Aさんは何十年間も精神的な病で苦しんできた歴史を持っているが、さらにがんの病が重なった。こうした状況にAさんはたびたび「なぜ自分だけがこんなに苦しまなければならないのか」と叫び問い続けた。Aさんは自分以外にも苦しんでいる人々や自分に与えられている良い事柄を意識せずに、足りないものとか、(もう)できないものなどに焦点を当てていた。あるときAさんが「これもあれもできない」と続けて愚痴を言ったとき、わたしは「できることはないでしょうか」と本人の話を遮って聞いた。そのときAさんは(まだ)できることを気楽にあれこれと並べたことが印象に残っている。
がんが進行してAさんが非常に苦しそうな調子で話したとき、わたしが「声は病気ではないでしょう」と言うとAさんは笑い、はっきりとした声を出してくれた。それは一回だけのことではなかった。
Aさんが限界状況になって救急車で入院した数日後、看護師に病室を案内してもらってAさんをみた瞬間、わたしは戸惑った。というのはAさんの丸い顔、髪の毛がまるでない頭は「果たして、この方はAさんだろうか。だれか違うおじさんなのではないか」と思ったからである。わたしを見つめるAさんに対して悪かったなーと感じた。
そのときのAさんは呼吸困難で、口と鼻にレスピレーターを付けていた。わたしをじっと目で見ながら小さい声で「イエスは助けてくれますか」と問いかけた。「イエスは助けてくれます。だがどういうふうに助けてくれるかは分かりません」とわたしは答えた。だがそれは単純な決まり文句や逃げ道としてではなかった。
しばらくしてから、非常に苦しんでいるAさんは次のように言った。「わたしは今まで自分だけのことを考えてきました。今、わたしの仕事(使命?)は看護師を笑わせることです」と聞いてわたしは驚いた。Aさんの人生観が180度変化したのではないかという気づきがあったからだ。病(身体の破壊)による思考や、人生の見解の変化は心の癒しだ! Aさんがもし身体的な健康に恵まれて人生を送られたなら、自己中心的な思考の中にあったAさんは一生それから解放されなかったかもしれない。Aさんががん(死)に対して無防備であるとき、いわば情けのない極限状況の中にあって新しい心の誕生を授けてもらった。この心の見事な変化は“イエスの助け”であったと。本人はそう思っているかどうかはわからないが…。
第三者であるわたしにとって、それは“神のあわれみの理解”より生じてきた一つの答えであったと確信している。上述のように、わたしは災いの残酷さをきれい事でカムフラージュするつもりはない。だが神・聖書のことばには、わたしたちの理解とは違った理解が含まれていることを意識するように注意しておきたい。
-------------------------------------------------
1: カトリックのミサ、儀式の最初の部分、いわば導入のようなもの
2: 詩編30:11
3: 詩編69:17
4: 詩編91:15-16
5: 創世記1:31
私の思い(3件)
今回の東日本災害は余りにも酷くて心の思いを言葉にする事はとても難しいと思っています。それは神様が関与なさった事であり、その上大勢の方々が無残な亡くなり方、生き方を強いられているからです。でも多くの方々はその中から共に生き、分かち合い、譲り合い、助け合い、泣き合い、そして人間って素晴らしい生き物である事を確認し合い、それぞれの置かれた所で、老人は祈るのみ、若人は再建に向かって希望を持ち、幼児は大人達に希望と笑顔を与え、健康人はあらゆる方法で寄付や献納品を提供し、国を超えての働きにただただ暖かい涙と感謝あるのみです。暫くはこの中で論ずるよりも、どうしたらこの中から神様をお喜ばせする生き方が出来るのかを祈りたいと思っています。
4月2日 祈る会
今回有志の方で集まりませんかとのお知らせを頂き嬉しくありがたく参加させて頂きました。思いもかけない東日本を襲った地震と津波の被害の大きさ、Kさんの旅立ちと私の心はゆれ続けていました。
みなさんと神父様のメッセージを読ませて頂き、共に心を合わせて祈らせて頂くことができました。みなさんと分かち合い祈ることで心の整理がついてきました。神様のなさることには人間の考えではなく必ず深い意味があると神父様が何時も聞かせて下さっていることで、この意味を問い続けることが大切なのではと思っています。
沢山の亡くなられた方々、その方々を亡くされた悲しみの中にいらっしゃる方々、そして身一つで避難所での不自由にたえながら過ごしていらっしゃる方々、福島の原発の事故で避難を余儀なくされた方々のことを神様は必ず心に留めてくださっていると信じたいと思います。
その困難の中で子どもの明るい笑顔、中高生が自分たちでできることを見つけて手伝っている姿、また自分の使命のため自分の身を投げ出して他人をすくって下さった方々、原発の修理のため決死の覚悟で修理をなさっている方々、世界の各地から応援にかけつけて下さっている方々に神様のはからいを見る思いがします。当たり前が当たり前でない事を見に沁みて感じさせても頂いています。
Kさんの事も長いかかわりの中であれでよかったのかといろいろの想いがよぎりましたが、最期はイエスの助けにより信頼して旅立たれたのではないかと思い、無力の時に神の力が働くことを感じさせて頂いたことも感謝です。長い闘いであったと思っています。
聖堂で静かな時間を頂いた事は何にもまして力を頂きました。静かな時間がとても大切である事、またあらためて感じさせて頂きました。この時を頂き共に祈らせて頂けた事感謝いたします。
祈る時にTさんが選んで下さった歌「主にまかせよ」の歌がとても強く心に残りました。“嵐にも闇にもただまかせよ ながみを”
2011/04/03 手紙より
今日で大震災から1カ月が経ちました。
今月の黙想の中で一番心に残っているのは、
「聖書を信じ、それを生活の基盤とする人にとって、大地震や津波のような大災害(大きな不幸や不運,災難)をどのように取り扱うかは重大な信仰の課題である」の箇所である。
自主的に参加した黙想会に、キッぺス先生から送られてきたメッセージに、「現実(今起きている事)を通して、神様のイメージをもう一度作り直したらどうでしょうか?」とありました。私たちは、黙想を通じてこのことを模索する作業を試みました。もちろんすぐには答えは出ませんが、この大災害の光景を間の当たりにしても、桜は満開に咲き誇るし、星は満天の空に輝いています。この大自然の不条理をもよしとした神のこころは理解はできません。
でも不思議なことに、私の中にも、集まった祈りの仲間のなかにも今までよりももっと聖書の言葉が心に響くようになったとか、讃美歌、聖歌の歌詞がぴったりくるとか、より信仰を新たにしたいという気持ちが湧いてきました。
いままでより黙想することの大切さを味あわせていただき感謝しています。黙想は力と思います。
※ブログの管理者が公開を承認するまで「私の思い」が反映されません。ご了承ください。

