毎月の黙想
「内面的な生活」 3月の黙想
内面的な生活 -人生は闘い-
最近、国際ロータリークラブの「4つのテスト」を目にした。*1 即ち、
1. 真実かどうか
2. みんなに公平か
3. 好意と友情を深められるか
4. みんなのためになるかどうか
初めて見たことばにわたしはすぐ写真を撮り、それを書き写してもらった。他者に教えるための材料だった。しかしその前に、まず自分自身に当てはめるのが優先課題であろう。ことばや無言の態度を含めた自分の行動は、上述した問いかけの細かい所まで徹底して調べれば、ほとんど「Yes」とは言えない。
たとえば、
“真実”。今、この文章を作成するのに“真実”であることは簡単ではない。というのは本音も建前も書くことができるからである。自分の内面的なことやプライベートな考えの全てを言い現す必要はないが、書いた事柄は”真実“であるべきだ。
“公平”。この文章を読む方々の理解度をほとんど考えていないのは事実である。それでは簡単に“公平”と言いがたい。
“好意と友情を深める”ことに“はい”と言いたいのだが、毎回、何らかの批評を述べる方を意識していることは事実である。その方に対して特別な配慮はしていない。“みんなのためになる”に関しても同様である。
この「4つのテスト」は内面的な事柄に方向付けをしてくれるが、楽な生活のためのヒントではない。却って生き方に重みを与えるに違いないし、人生をグレードアップするものである。人生は絶えずリニューアルの過程にあるからである。
この他に内面的な生活を送るためのヒントは、
*“持ち物の増加よりも消費の減少”。このモットーを追求するに当たって注意することがある。質素な生活そのものは目標ではなく、内面的な自由を得るための手段であることを忘れてはならないこと。必要とするものの減少は内面的な成長をもたらすが、質素な生活そのものはルーズさや社会に通用しない変人も生み出される可能性がある。質素な生活の核を明確にし、それに向かって全力を尽くすことである。生きる目標とは多様性を尊重し、共に生きることを可能にする連帯感である。言い換えればそれは心を生きる/活かせることであろう。
私事になるが、わたしは研究や学ぶこと、内面的な生き方を目指している。研究にはパソコンやインターネットが非常に有効で、なくてはならないものになっている。例えば曖昧なこと、無責任なことを言わないためには聖書研究、現代医学や歴史などを調べざるを得ない。だが研究目標に向かって進んでいながら必要でない事柄にも出合い、それを追求する傾向が生まれやすい。いわば「横道」へそれ、制限されているエネルギー(能力)や時間を無駄扱いしてしまう。その結果は研究が進まないだけではなく、落ち着きや内面的な平安も失ってしまうことが多々ある。結論として言えるのは、“目的に向かうために必要とするものはその目的のためにだけ利用すること”である。
*“今”という時を意識して生きること。それは内面性を深める。明日の天気ではなく今の気候、明日の仕事ではなく今やっていることや体験していることを中心にする。
* 何かに不自由になったとき。出来ないことではなく、できることやふたたびできること、自分しかできないことをリストアップし、それらを味わうこと。
* 減少したエネルギーを無駄扱いしないこと。例えば心配しながら検査結果を待つより、今日出来ることに力を尽くすこと。
* 祈ることは命の源と共に居させてもらうことが中心課題。従ってことばよりも沈黙の時間を増やすこと。最近4日間続けてミサと教会の祈りに参加した体験では、ことばが多く、唱えるスピードにも追いつけず、心に残ったものはゼロに近かった。その代わりに聖書の一つの句だけを4日間通してかみ砕いたなら有益だったと思う。ことば数や儀式だけでは命の源とのつながりが出来上がらず、必要とする内面的な糧を得られない。
内面的な生活に必要なのは現実の複雑な世界から逃避せず、その現実を改善するように全力を尽くして生きることである。イエスは内面的な世界(御父と聖霊と共にいる状態)を後にし、わたしたちの複雑な世界に進んで来てくださった。それは問題のない世界(=天国)が退屈で、気分転換のために冒険旅行をするようなものではない。わたしたちのごちゃごちゃな世の中(=心)を改善するためであった。イエスはその“天職”を受けるまでにどんな日常生活を送ったかはわからないが、天職を手に入れてからは食べる暇もなかったときもあった。*2 だが人々の評判(人気者)になり、王(リーダー)になって欲しいと人々が来たときには、イエスは一人で山に登った。いわばイエスは内面性や自分の使命感を見つめ直した。*3 イエスは財産を持っていなかったようだが、使命感をもち、それを中心にして人生を送られた。それは簡単な自己課題ではない。内面的な耳や目を育む絶え間ない努力の結果である。イエスに呼ばれ、イエスに従おうとする者の生活様式もそれに似ている。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」*4
---------------------------------------------
1: 国際ロータリー(Rotary International)は世界各地のロータリークラブを会員とする連合組織である。
2: マルコによる福音書3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3: ヨハネによる福音書6:12-15 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
4: マタによる福音書16:26
私の思い(2件)
この文面を読みまして、先ず気が付いた事はキッペス神父様はとても深く厳しい位に自分に問い掛けておられる様ですが、そこまで自分を追い詰めて考えなくても、何時でも自分に真実に生き、宗教や人種や経済的な事とか身体的な事にこだわらず、分け隔てなく公平に周りの人々に心を開き、好意を持って友情を深めている努力をしているならば、それでキリストを証し出来ると思っていますし、時に至らない事があったとしても私はもうそれで自分を大いに受け入れてあげたいと思っています。自分に優しい人は人の優しさにも直ぐに気が付く事と思いますが如何でしょうか?。愛された人でないと愛は実行出来ないとのマザーの言葉が思い出されました。
T.S.
この3月の黙想を読んだ時にはこの内面的な生活-人生は闘い-
についてまた、いつものキッペス神父様のスタイルだなあ・・・と受け留めていたのですが、3.11の大地震から4月になるまで、この地震、津波、原発問題、買占め、ガソリン問題、停電・・・さまざまな思い、わずらいで私自身(じしん)が自信(じしん)をなくしそうになってしまいました。
パストラルケアでは患者さんがどんな衝撃的なことをおっしゃってもそれに巻き込まれない冷静さを求められます。
ところが、テレビによる映像を見続けた結果、内面的な生活を大事にしていなかった訳ではないのですが、被災した訳ではない私がテレビを観て泣き、新聞を観て泣き、かなり不安定な心理になってしまったのです。ただ一つ救いはKさんの最期の旅立ちに心を寄せている時でした。どんな時でも内面的な生活-人生は闘い-が大事なのだとつくづく思いました。
※ブログの管理者が公開を承認するまで「私の思い」が反映されません。ご了承ください。

