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信仰とは
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信じている信仰 対 生きている信仰
G8サミットでは現代世界の改善や維持への支持を求めているが、個人としてできることから実践することが優先課題であろう。その一歩として世界の現状の把握に努力することである。それはマスメディアの情報を好奇心を満たすことや暇つぶしではなく、読んだり見たりするニュースなどの内容をよく選択し、時間的な制限をすることから始める。何もかも把握する能力は持っていないから、得た情報が自分の生き方(生きること)にどんな関係があり、どんな影響を及ぼすかを熟考するのが望ましい。もし株の愛好者なら日常の株の動きは気になる情報であろう。だがCO2 の排出は株とは違う問題であり、温暖化の取り組みは政治家や興味のある人だけの問題ではない。わたしたち一人ひとりに影響がおよぶ重大な課題である。
わたしはタクシーや公的交通機関をよく使う。夏であっても上着を持って行くのは普通になっている。というのも車内の冷房温度は下げすぎで、冷房病になる恐れがあるからである。タクシーやバスの運転手や車両内の乗務員に嫌われる覚悟をしつつ、温度を下げるように願っている。礼拝(ミサ聖祭)の時、聖堂に入るとカーディガンをはおる姿が目に入り、気になっている。外気温に関係なく、気持ちよい風が吹いても吹かなくても、季節だからと、分別なく冷房にスイッチを入れる習慣のようである。電気の使い方もそうである。CO2 の排出や環境資源を大事にすることはほとんど意識化されていないようである。
健康維持のためにも礼拝にはできるだけ徒歩や公的な交通機関を使うように実行し、それとも信徒の共同体造りの具体化として車のプールを進める。それは連帯感、環境資源の大切さの意識化や教会の駐車場問題も少し解決の鍵になるかもしれない。さらに教会共同体は街の生きる刺激にもなるのではないだろうか。
昨年12月、カトリック信徒になったトニー・ブレア前英首相は6月27日、朝日新聞記者と会見し、地球温暖化など気候変動問題に取り組む上で、日本がポスト京都議定書の枠組みづくりに向けて明確な道筋を示すべきだと訴えた。09年にコペンハーゲンで開かれる気候変動枠組み条約締約国会議(COP15)に向け、「何をすべきか。世界的な目標は何か。どう進めるべきか。日本は示すことができる」と語った。*1 これはわたしたち一人ひとりの課題でもある。
嫌なことを指摘するなら敬遠される。教会の中でもそうであろう。だが地球温暖化など気候変動問題は聖堂と信徒の個人的住まいにも当てはまる。それは人類の生残りの問題よりも創造主に対する尊敬から生じてくる課題であろう。6月より聖パウロ年が始まり、11月には殉教者の列福式が行われる。聖パウロや殉教者は当時の社会に讃えられた人たちではなく、社会に適応しようとせず、社会にとっては調和を乱す人たちであった。彼らの模範に従い、生きる根底に関わる問題を追求すれば、この記念年や列福式にいのちを与えるものになるであろう。
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1: 朝日新聞 08年6月28日 p.8「国際」
08.07.14
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07.11.26.
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
(新約聖書 ヘブライ人への手紙11:11)
07.08.13.
原爆忌を迎えたのは今年で62回目になりました。教会が「平和旬間」を実施していることは大変ありがたいのです。ところが、「毎日のミサ」には平和の祈念や原爆の悲劇が反映されていません。ミサの時、まったく異なった世界にいるような気がせざるを得なかったのです。特に8月6日、「主の変容」の「入祭唱」には違和感を覚えました。即ち、「光り輝く雲の中から声が聞こえた。…」(1) 原爆による人工的な雲は暗く死や破壊の火を吐くものであり、それと「光り輝く雲」とは正反対のものではないか・・・。1965年より「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある」(2) と唱えている教会は、日本のカトリック教会は8月6日および9日を日本の現実に適ったものに(土着化)できないだろうか。
(1) マタイ17:5
(2) 「現代世界憲章」1965.12.7.
07.08.12.
以下の葬儀におけるきれい事に対する不平を持っていながら、わたし自身のミサにおけるきれい事の態度に気づかされた。ミサの際、「主(イエス)の死を思い、復活をたたえよう」とか「今、主イエスの死と復活の記念を行い…」の決まり文句を何十年もの間唱えてきたが、ミサ中、イエスの死、(神なる)御父のイエスの死に関する悲しみの気持ちについて考えなかったことに気づかされた。わたし自身もイエスの苦しみを思い出したくなくて、復活だけを祝っている…
教訓 他者についての不平不満は自分自身のことを明らかにさせてくれる。
07.08.09
今日は長崎の原子爆弾記念日である。今日のミサのテクストにはこの出来事が反映されていない。ミサの最初の賛美歌は「神よ、あなたは命の道を示して下さる。あなたの前にはあふれる喜び、あなたのもとには永遠の楽しみ。」とあった。原子爆弾の破壊と正反対の事柄であったように感じないではいられなかった。日本の教会はその日毎に適切な賛美・祈りを提供できないだろうか。
07.08.07
わたしはある葬儀に参加しました。故人の名誉や功績など、その人を褒め称えることばが続き、故人の最期の年月~寝たきりの生活~について触れた人はいませんでした。それではあまりにきれい事のような印象を受け、本物のひとときではありませんでした。「なぜ、何のために一所懸命生きてきた人がそんなに苦しまなければならないのか」
07.08.06.
62年前の今日、広島の空から原子爆弾=死や破壊が降りてきた。今日のミサはイエスの変容(姿が変えられた)の記念を行った。新約聖書(福音=喜びのたより)には「イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。…雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。…」(ルカによる福音書9:28―36)
「声が雲の中から聞こえた」ということばに驚いた。2千年前、雲の中から神の声が聞こえてきたが、62年前、広島の空から「死と破壊」が降ってきたのだった。 「神=命」対「死・破壊」
日本の教会は8月6日というこの日に、広島の出来事を中心にして記念すればどうだろうか…
私の思い(3件)
私は人の2倍以上他者に対して不満が多い者だと自負している。きっと自分にできないことを誰かがしてくれるという思いが強いのかもしれない。キッペス神父様から言われた言葉を時々思い出します。
全く理解しがたい人のことに対して・・・
「あなた以外の人の役にたっていればいい」。
誰かがこうなってくれればいいと願う時・・・
「人は変えられません」。
そして・・・
「自分のことしかわかりませんが」と前置きしてご自分の事をおっしゃる時
私の信仰に随分助けになり、心から感謝できることを学びました。
今日、いつも行くクリニックの看護師さんに「どんな小さなビジネスホテルでも必ず引き出しの中などに聖書が置かれているのは何故?」と質問されました。
キッペス神父様、このH.Pをご覧になってらっしゃる方・・・
なんてお答えになりますか?
ちなみに私の答えは「聖書の言葉にはものすごい力があって具合が悪くなった人を癒すことさえあるからかも?」な~んて。
イエスの名刺が本にも登場!
「わかりやすいミサと聖体の本」著者白浜 満 女子パウロ会
福岡サン・スルピス神学院の先生でもあり、典礼のスペシャリストでもある白浜神父様が正直にていねいに愛情込めて書かれた新刊です。サン・スルピスで捧げられるミサにはいのちがあり、司祭達の気迫がこもっているのは虚心坦懐に祈っているからか?
「家に行く」のではなく『家に帰る』というでしょう。同じように「ミサに行く」のではなく『ミサに帰る』というのが、むしろ自然ではないでしょうか? どんな時にも帰るべき自分の家族がある(本書より)・・・おん父、イエス、聖霊を中心にした私たちはみんな家族なんだと再確認しうれしくなりました。
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