司祭になって(叙階)50周年司祭になって(叙階)50周年

司祭になって(叙階)50周年 vol.3

Fr. Kippes 同行記
“「使命感」とその根底にあるもの”

三橋 理江子

 日本とドイツの敗戦までの歩みについてごく簡単に記しておく。
 当時ドイツとイタリア、日本は三国同盟を結んでいた。敗戦の年、日本は沖縄戦で成果を挙げることによって、「国体保持」のための戦争終結へのきっかけをつかみたいという気持ちが強くあった。しかし、実際には当時の首脳陣が予期したようには進まず、沖縄がアメリカ軍の手に落ちたばかりでなく、日本の戦力をも大幅に低下させてしまう。
 その間に、5月6日にはドイツが無条件降伏してしまい、日本はまったく孤立無援になってしまった。さらにロシア軍の参戦と原爆投下、この二つがなかったとしても1945年12月31日以前には確実に、そして11月1日以前にはたぶん日本は降伏していただろうといわれる。アメリカ軍が沖縄に上陸した直後の4月5日、小磯国昭内閣が倒れた。
 理由はフィリピン戦に破れ、沖縄へアメリカ軍の上陸を許し、また中国の国民政府との和平工作をめぐって閣内が分裂した挙句の総辞職であった。
 かわって首相に就任したのは、元海軍大将の鈴木貫太郎である。陸軍の戦争完遂の圧力がある一方、「このうえの戦争継続は非常に困難で1日も早く終戦しなければならない」と自らの考えを述べ、鈴木首相の同意を得た上で外相就任をした東郷茂徳の存在もある。鈴木内閣は「右の手で戦い、左の手で和平の工作をすすめる」という、方針の不透明な内閣であった。「本土空襲」「広島・長崎の原爆投下」から8月15日の終戦を迎えるのであった。
 一方、同じ敗戦国であるドイツはイタリアのムッソリーニが4月28日に処刑されたころ、首都ベルリンも最後の日々を迎えようとしていた。市内にはすでにソ連軍が入り、ヒットラーは総督官邸の地下壕にこもり、絶望的な抗戦を続けていたが、30日、ヒットラーは自殺し、その一週間後、ドイツは連合軍に無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争は終結した。
 それに対する連合軍は1945年2月4日からアメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン首相、イギリスのチャーチル首相の3人でソ連のヤルタ宮殿でヤルタ会議をひらいた。会談の主題は、戦争の遂行ではなく、戦後のヨーロッパをどう安定させるかにあった。とくにソ連が圧倒的な軍事力によってドイツ軍を打ち破り、東・中欧に進出していたので、ソ連の協力なしには、戦後のヨーロッパの安定も世界の安全保障もありえなかった。ルーズベルトは戦争中に結束した連合国(United Nations)を発展させて、世界的な安全保障機構として「国際連合」(United Nations)を作り、米英ソを中心とする大国の指導下に、各国が力を合わせて平和を守るべきだと考えていた。

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ウィーン、フロイト記念館

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ウィーン、V. フランクル居住記念碑

 会談の最後の日に対日戦へのソ連の参加を決めた秘密協定が成立した。
 協定で規定された条件は、二つの内容があるが一つは日露戦争の報復という論理に立つもので具体的には、中国東北におけるロシアの旧権益(鉄道および旅順・大連の港湾に関するもの)の回復と南樺太の返還が約束された。
 二つ目は、ソ連の安全保障という国益に適うものとしての要求で、ソ連の緩衝国である
 モンゴル人民共和国の現状維持と千島列島の割譲がそれである。
 日本で鈴木貫太郎内閣が成立したころ、連合国側でも重要な指導者の交代があった。
 4月12日アメリカ大統領ルーズベルトが心臓発作で急死し、かわって副大統領のハリー・トルーマンが昇格した。彼は外交経験が皆無であり、反ソ的な見解の持ち主としても有名であった。「マンハッタン計画」という暗号名で進められていたアメリカの原爆計画は、アメリカ・イギリス・カナダ三国の協力によって4月25日より4ヶ月以内に完成し、今後数年内にソ連も量産できるようになり、その取り扱いを誤れば、「世界は最後にはこのような兵器によって意のままにされることになるだろう」とトルーマン大統領に詳しく説明したのはスチムソン陸軍長官だった。おりしも始まった連合国会議(4月25日~6月26日)スチムソンは戦後世界の安定のためには、恐るべき破壊力を持つ原子力を、国際管理の下に置くことが必要であるがそのためには、ソ連との協力が不可欠であると考えていたので、新大統領に注意を促すことが必要と考えたのである。

原爆の実践使用の問題について

1、 しばらく前から日本が標的になっていること
2、 第20空軍の特別訓練を受けた投下部隊がまさに海外の基地(テニヤン島)にむけて出発しようとしていること
3、 原爆が戦争の終結を早めると確信されていること

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ユダヤ教会跡(記念碑)

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ユダヤ教会の列柱記念碑

 などを説明したが日本に投下すべきかどうかは問題にされなかった。一発で都市全体を破壊し、一瞬にして数十万の一般住民を殺傷できる残虐な兵器を使うことが、道徳的に許されるかどうかという、人間としての正当な問いかけは、ついになされることがなかった。
 この日の会談の結果、原爆をめぐる諸政策について、大統領に勧告するために暫定委員会がつくられた。5月31日には、まず原爆を投下する前に、開発が進んでいる事実をソ連に知らせるべきかどうかが議論された。結論は、ソ連に秘密にしたまま原爆の研究・製造を進めるべきだということになった。
 ついに7月17日、米、英、ソによりポツダム会議が開かれるのである。
 7月24日、トルーマンは「前例のない破壊力を持つ新しい兵器を持っている」という漠然とした言い方で、スターリンに原爆の保持について話した。スターリンはすぐにそれが原爆だと理解した。彼は直ちに、1942年以来停止していた原爆開発計画の再開を命じた。このことがかえってソ連を核軍備競争に冷戦へと向かわせたと現在では明らかにされている。7月26日、ポツダム宣言は発せられた。それは、日本政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言することを要求し、それ以外の選択は「迅速かつ完全なる破壊あるのみ」として、降伏か滅亡かの選択をつきつけた、厳しい通告であった。

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ブランデンブルグ門(左)
静かな部屋(中央)

日付: 2007年05月11日

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