イエスとわたしイエスとわたし

まず一日の始まり。

 私はベッドから降りると、跪いて手を伸ばして 御父(父なる神)と聖霊(なる神)の御名を呼ぶと同時に“イエス”、あなたの名をも呼び、賛美と感謝の祈りを唱えます。

「御父 お早うございます、イエス お早うございます、 聖霊 お早うございます」、
「御父 ありがとう、イエス ありがとう、 聖霊 ありがとう」、
「御父 あなたに栄光、イエス あなたに栄光、 聖霊 あなたに栄光」。
その続き
「お許しください」「強めてください」「祝福してください」

と同じく称えます。その後ひれ伏します。  朝、頭がはっきりするので、たちまちパソコンに向かって仕事をすることが多いのです。
 洗面・シャワー室に行く途中、チャペルの前を通る時、「おはよう!」とあなたに挨拶します。
 洗面所の大きな鏡の前に立ち、ポーカーフェースをなくすために鏡の前に立って少しにこにこする稽古をします。それはあなたが喜びの便りをもたらしにきたからです。喜びがなかったらあなたに似ていません。

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 自己愛も同じです。「自分と同じように他人を愛しなさい」とおっしゃったのはあなたです。自己を愛(大切に)することができなければ他者も大切にすることはできません。私は自分自身への愛を再確認するために、髭を剃る前に“君が好きです”と、鏡の中の自分に向かって言います。私がこれを言えるのは、イエス、あなたが存在し、そしてあなたが私と共にいるからなのです。自分に向かって“君が好きです”と言うのは、非常に難しいと感じることもあります。例えば、過ちを犯したときなどは特にそうです。そのような状況では自分自身にこう言うことにしています。「もし、地獄に落ちるとしても、私はあなたに『あなたが好きです』と言うことにします。私はあなたにいつも一人の友が居ることを分かって欲しいからです。その友とはつまり私自身です。」と。
 私はあなたが人を愛し、大切に思い、理解し、人を許す方だと知っていますので、自分自身に向かって“君が好き。”と、言えるのです。また、イエスあなたが私を支えていてくれると実感しています。もし、あなた(イエス)を知らなければ、毎日のように自分自身に向かって“君が好き!”などと、言えるでしょうか。あなたなしに「君が好き。」という心理的、しかも霊的な訓練が、私の人格の向上や発展に役立つかどうか疑問に思っているからです。つまりイエス、あなたの私に対する配慮は、私の自己愛を可能にしてくれることを私は体験させてもらっています。
 ひげ剃りと朝の体操後、お湯が気持ちよく身体を流れる時、よく御父への感謝の言葉が私の心と口から自然に湧いてきます。シャワーのときの感謝はミサのときよりもごく自然であり、本物です。
 洗顔を済まし、服を着替え終わると、普通1時間の黙想をします。朝のこの時間は、私の最も生産的で充実している時間です。ですからしばしば黙想してあなたと共に居させてもらうか、仕事をするかで葛藤が起こります。この1時間を何も考えずに、ただあなたと共に居させてもらうように過ごそうとします。あなたの名“イエス”だけを時たま繰り返す時もあります。聖書のある箇所で黙想を始める時もあります。というのは前日のミサの聖書朗読の一言を思いだし、それを味わうこともあります。だが思い出さないときも少なくありません。そのとき、あなたの名前「イエス」だけを味わうようにします。私は聖書の言葉の中でも、イエス、あなたがおっしゃった言葉が好きです。ですから聖書の言葉で黙想を始めるとしたら、あなたの言葉から黙想を始めたいのです。しかし、聖書の言葉でも、あなたの名前ほど私の心を満たすものはありません。

日付: 2007年05月01日

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